月舘町伝承民話集 -146/200page

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数で多くの品は扱って来る事は不可能に見える。女神山中腹に仮屋を建てて住む事になったのも、旅を続け られない事情の為であったと推測して居るが、他に病気とか種々の原因だったとすれば再びこの地方から移 動される筈だし再出発に関しての話は全然伝わっていない。以上の事から見て小手姫が皇后であった事は間 違いない事実である。だが女神山麓の各部落にも、広く語り継がれた伝説にも全然この事実は語られていな い。それは父の大伴糠手のように名は替えなかったけれども、その身分については極秘とされたからであろ う。更に機織り神及び養蚕神社縁起等の附会の説が紛れこんで益々昏迷したのであろう。

 例えば川俣の機織神社縁起に(又は小手濫觴記)

p1、人皇16代仁徳天皇の御代大和国高市郡川跨の里に庄司秦の峰能という人あり、この人、天皇の命を蒙 り一子小手姫を伴えてこの地に来り桑を植え蚕を飼い絹を織る業を教えたり、朽人山より西北の諸村を総称し て小手郷というは小手姫より出でたるものにして」と記している様な訳で、更にこの小手姫を48代称徳 天皇の時代としたものもある。この称徳天皇の侍医で百済から来た小手子という女医があり称徳天皇亡後、都に居る事が出来なくなって、この小手郷の「飯坂村尼舘に住す頗る名医(霊人ともいっている)にして国中 の人々より学信せらる」とあり、この小手尼が小手姫が尼になったのだという附会が流れて居たところもあ ったが、これは昭和43年の歴史読本に小手尼の事が詳しく述べられているが、小手姫と小手尼の年代には明らかに126、7年の隔たりがあるのに一ツのものに混同された記録が何時の時かに書き遺されたのである。記録する事の大事な心構えというものが痛感させられるのである。

 川俣町大字秋山一メ森、佐藤長明氏所有の小手姫記事及小手姫古事による。


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