月舘町伝承民話集 -159/200page

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こそ祖宗に対し必要なれこの期に臨みて我れ乍ら女々しき事であった然らば将監其方先導を頼む」将監 「委 細承知致し候」周防「丹波其方は最後の計をなせ」丹波 「主君の意決し候時は一刻も猶予ならじ我は其手筈 を定むべければ三郎右衛門殿城内の準備依頼申す」丹波出で行く。一同名残を惜みて逡巡しつゝ退く。戦後、 政宗「さしも頑強に抵抗せし周防も我軍には敵し得ず、城を占領する事を得たるは弓矢八幡我を見捨て給は ざるの証なり、芽出度しいざ戦勝を祝ふ、さあ一同立上り万歳三唱し乱舞す」原田 「流石は手渡八郎の子孫 丈けありて其強勇は未だ見ざる所臣下亦一として一騎当千ならぬはなき勇士であった」片倉「原田殿も大手 の合戦には退かれた程でござったのう」原田「某が退いても決して恥辱には存ぜぬ敵ながらも天晴であった」 正宗「全く其の通り我軍も彼の武勇をあやからう然し今後共油断はならぬ。察する所敵は相馬へ落ちたる如 し。相馬と合して再挙を計るは当然なり」原田 「然し我軍も一致君を中心として軍律を正し武を養いたらん には手渡軍も破り得るこの意気で奥州五十余郡を平定せん」政宗「実に我意を得て壮快至極いざ此の機に乗 じ再び軍を進め従はぬ者を討たん」一同退く。斯くて伊達氏は遂に仙道を従へ東北に雄飛したれども、相馬 氏を従ふを得ず、手渡周防守宗成等は再び旧領を復したるが如し唯伊達氏に降りたるや否かは知る由もなく も手渡勢一同、後に姓を大内、斎藤、佐藤と改め亀居館を築きて上下手渡を領したりとぞ。

義の魂は萬代迄の桜かな         永 心 道 人

(月館町下手渡郷土の栞より)

昭和49年1月20日写す


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