あだち野のむかし物語 - 002/037page

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安達太郎(あだちたろう)
   
 
二本松市

 昔、田地(でんち)が岡(おか)に安達太郎という人が住んでいました。この奥方(おくがた)は飯坂(いいざか)城主佐藤氏の娘照姫(てるひめ)というとてもきれいな人で、四歳になる子供もおり平穏(へいおん)な暮らしをしておりました。

 この頃、京都から派遣(はけん)された多賀城(たがじょう)の国司(こくし)は色好みで、国内の美女を我がものにしようと、常に非道(ひどう)をして困らせておりました。そして、飯坂城主佐藤氏に「田地が岡の安達太郎の妻はおまえの娘で、たいそう美人と聞いた。その娘を私にくれ。」と差し出しを命じる無理難題(むりなんだい)を申しつけたのです。

 佐藤氏は、思いあまり、婿(むこ)を殺して、娘を差し出すほかはないと考えて、太郎夫婦には自分が病気と偽(いつわ)って、二人を飯坂城に招いたのです。照姫の付き添いの賢い腰元(こしもと)が謀(はかりごと)を見破り二人に危急(ききゅう)を知らせたので太郎は大いに驚き、照姫を連れて帰ろうとしましたが、すでに田地が岡は多賀城の家来(けらい)たちによって占領(せんりょう)されてしまっていました。

 そこでやむをえず、安達太良山(あだたらやま)の山奥にしばらく隠れ潜(ひそ)んでいました。やがて都に出た安達太郎は、この国司の数々の悪行(あくぎょう)を都の役所に訴え出たので、国司は流罪(るざい)の処罰(しょばつ)を受けました。

 時が過ぎ、安達太郎は再び田地が岡に戻り安達の郡司(ぐんじ)となりました。

 この話は、畠山(はたけやま)氏三代目の畠山国詮(くにあきら)(幼名(ようみょう)大石丸)が幼少のころの一つの伝説であるともいわれています。伊達行朝事暦(だてゆきともじれき)によれば、この田地が岡を「国司館(こくしだて)」と呼び、国司北畠顕家(きたばたけあきいえ)が居館(きょかん)していたとも伝えられています。さらに源 頼朝(みなもとのよりとも)の奥州平泉征討(おうしゅうひらいずみせいとう)の時には、小野田藤九郎(おのだとうくろう)(安達盛長(あだちもりなが))も居館し「殿地が岡」とも呼んでいましたが、今は田地が岡といわれています。


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