あだち野のむかし物語 - 026/037page

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虎丸長者(とらまるちょうじゃ)と焼き米
   
 
二本松市

 昔八幡太郎義家という武将が後三年の役の際、奥州征伐に約八百の兵をつれて長者宮というところにさしかかったときです。夕刻ものすごい大雨になったので、義家は長者宮の豪族虎丸長者に一晩の宿を頼んだのですが、常に安倍に加担(かたん)していた長者は義家の申し出を断わってしまいました。しかたなく東方の仮宿(かりやど)というところで一夜の宿をとりました。

 義家は、このままにしておいては危険人物であると思い、虎丸長者にいろいろ話をもちかけたのですが、聞き入れないので怒った義家は仮宿というところから虎丸長者屋敷に向けて火矢を射掛(いか)けたのです。

 八丁四面の屋敷はたちまち火につつまれ七日七晩燃え続け長者の栄華の夢は破れ荒涼たる焼野の原と変わってしまったのです。

 そののち巷の間では焼け跡には「黄金千杯 米千杯 朝日さす夕日かがやく三つ葉うつ木の下にある。」などの俗謡が広まりました。

 幕末の頃、二本松藩主丹羽長国公は「黄金千杯 米千杯 朝日さす夕日かがやく云云」の俗謡を耳にして杉田村の農民多数をつかって発掘(はっくつ)をしたのでした。その結果は切り断ったところ目の高さに横一線に厚さ十センチメートル程の焼き米が多量に出土しそのほかは何もなかったとのことです。

 ただ延喜(えんぎ)六年(九〇六)に安積郡から分置された安達郡衙(ぐんが)の跡であることが判明したということです。
虎丸長者(とらまるちょうじゃ)と焼き米


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