あだち野のむかし物語 - 030/037page
妻におそいかかりました。ほと走る血、苦しみもがく若妻、赤子の生き肝をむしり取るお婆、すべて一瞬の出来事です。だがその時、何かを訴えたげな虫の息の若妻の声−。
「お、お婆様。私は母を尋ねて陸奥へやって来ました。ここで死ぬのも運命(さだめ)でございましょう。で、でも、もしいわてという私の母に会うことがあったら、む、娘の恋衣(こいぎぬ)は死んだとお伝えください。そして、こ、このお守り袋を渡して……。」
「な、なんと、お前がこ、恋、恋衣とな、わ、わしの娘の恋衣……。」お守り袋を手に、こわばりふるえだすいわての五体、しかしもはやなすすべはありません。
やがて岩屋からよろめき出、青白い月に乱れ白髪をなびかせながらさまようお婆の姿は、すでに狂人そのものでした。
一方、やっとのことで手にした薬をたずさえ、岩屋にもどった生駒助が目にしたものは、妻の変わり果てた姿でした。どん底の悲嘆に、自らの胸を刺して妻の後を追う生駒助−。
−幾年月かが過ぎ去って行きました−
晩秋のある日、岩屋の前に立って案内を請う、一人の老僧がありました。
「旅の僧だが、一晩泊めてもらえませぬか。」
熊野の那智社〈和歌山県〉で修業を積んだ、阿闍梨東光坊祐慶(あじゃりとうこうぼうゆうけい)という名の高僧でした。しかし岩屋の客となった祐慶は、お婆が薪を取りに外に出た折り、何気なくのぞいた隣室に、山積みの白骨を見てしまったのです。
「さては、噂に聞く鬼婆のすみかはここか。」
身の危険を感じて逃げ出す祐慶、それと知って追うお婆。近づく足音に、もはやこれまでと覚悟の祐慶は、背に負う那智社観音像を芒の根に