わたしたちのきょうど にほんまつ -043/055page

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2 二合田用水(にごうだようすい)

二合田用水は、いつごろ、なぜつくられたのでしょうか。

 二合田用水は、今から350年ほど前に、二本松の殿(との)様(丹羽光重(にわみつしげ))が、城(しろ)を守るために、磯村吉徳(いそむらよしのり)と山岡権右衛門(やまおかごんうえもん)という人に命じ、安達太良山(あだたらやま)の中ふくから引かせた用水です。

丹羽光重の肖像(しょうぞう)
丹羽光重の肖像(しょうぞう)
○  丹羽光重(にわみつしげ) (1621年〜1701年)
 1637年、父長重(ながしげ)がなくなり、白河藩主(しらかわはんしゅ)となる。1643年、二本松藩たん生にともない、初代藩主(しょだいはんしゅ)となる。藩のきまりを定めたり、城(しろ)をなおしたり町なみを整えたりして、二本松藩のきそをきずいた。二合田用水のけんせつ計画が立てられたのが1652年ごろと考えられるので、二合田用水のけんせつは、藩主光重が命じたものと考えられる。

○  山岡権右衛門(やまおかごんうえもん) (?〜1669年)
 二本松藩士(はんし)。二合田用水を考えた人と伝えられている。二合田用水のそくりょう・せっ計を行った磯村吉徳(いそむらよしのり)をすいせんしたのも山岡権右衛門(やまおかごんうえもん)といわれている。幕府(ばくふ)にゆるしをえない工事のため、藩士の身分をはなれたともいわれている。

磯村吉徳のお墓(はか)
磯村吉徳のお墓(はか)
○  磯村吉徳(いそむらよしのり) (?〜1710年)
 和算家(わさんか)。尾張国(おわりのくに)(今の愛知(あいち)県)に生まれ、1658年に二本松藩にめしかかえられ、二合田用水のそくりょう・せっ計を行った。
おはかは、根崎善性寺(ぜんしようじ)にある。

イラスト むかしのことにくわしい根本さんの語
 二合田用水がつくられたころは、武士(ぶし)と呼ばれる人たちが中心の世の中で、二本松も現在(げんざい)の霞ヶ城(かすみがじょう)公園の中にお城があり、丹羽光重(にわみつしげ)というお殿(との)様がおさめていました。お城(しろ)を守るには、十分な水が必要(ひつよう)ですが、お城山(しろやま)にはその水が十分にありませんでした。
 そこで、お城(しろ)に用水を引く計画が立てられたのです。のちに、この用水は、城下(じょうか)の生活排水(はいすい)をきれいにしたり、火事の時に使われたり、農業用水としても使われるようになりました。


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