わたしたちの町あだち-044/059page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

[8]きょう土を開く

 今、安達町になっている地いきの人たちのくらしを長い間ささえてきた仕事は
・お米をつくる仕事
・かいこをかってまゆをとる仕事
・紙をすく仕事でした。
 1000年以上も前からこの3つの仕事は、多くの人たちのくふうと努力によって発てんしてきました。どんなくふうと努力があったかを考えてみましょう。

(1)用水路をつくる
●新ぼり
 お米をたくさん作るのには広い水田が必要です。
 広い水田にはたくさんの水が必要です。
 今からおよそ330年ほど前、安達町の北の方には吉倉村、米沢村、下川崎村という3つの村がありました。
 その3つの村には広い平地がありましたが、田に引く水がありませんでした。みんな自分の田に水がほしくて、けんかになることもたびたびありました。
 吉倉村の名主(村長)だった鈴木庄左衛門という人が何とかしてこの村に水を引こうと考え、いろいろ研究しました。そして、となりの渋川村の「ふじこぶ」という所にわき出している水を用水路をほって吉倉村まで引くことを考えました。しかしその当時は、機械はありません。全部人の力だけで土をほったり、土や石をはこんだりするのです。工事は何年もかかりました。そしてとうとう約10kmの川水路が完成し水がどんどん流れてくるようになりました。この水のおかげで吉倉村には新しい田もどんどん開かれ、お米もたくさんとれるようになりました。、この用水路が吉倉ぼりです。

新ぼりの記念碑(米沢)
▲新ぼりの記念碑(米沢)

吉倉ぼりの記念碑(吉倉)
▲吉倉ぼりの記念碑(吉倉)


 わたしたちの町の発てんのためにつくした人に、どんな人がいるのでしょうか。また、どんなことに力をつくしたのでしょうか、しらべてみましょう。

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は安達町教育委員会に帰属します。
安達町教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。