わたしたちの町 いわしろ - 029/034page
・天保(てんぽう)10年、伊勢(いせ)、大和(やまと)、京(きょう)、大阪(おおさか)、四国(しこく)、九州(きゅうしゅう)を見聞きして歩いた。
・鈴石村の名主(なぬし)をまかされた。・安政(あんせい)5年秋、大洪水(だいこうずい)がおこり、鹿児島県から苗を取りよせて、台明竹(だいみょうだけ)を植えさせた。(閑哉竹とよばれた)
・須賀川の馬鈴薯(ばれいしょ)を取りよせ、村全体に作らせた。(閑哉芋(いも)とよばれたが、今は"かんぷらいも"とよばれている)
・明治元年、戊辰戦争(ぼしんせんそう)がおきて、諏訪神社(すわじんじゃ)のお祭りの日に三春の方から押(お)しよせてきた官軍(かんぐん)と話し合いをして、お祭りを続けた。
・安積三原(あさかさんばら)の開拓(かいたく)をとなえ、運動(うんどう)を行(おこな)った。
・明治3年春、今泉一三郎と共に実地踏査(じっちとうさ)をして、建白書(けんぱくしょ)を出した。
・明治5年秋、第三回踏査。
地理(ちり)、水利(すいり)を調(しら)べ水路の計画をたてた。
・明治6年8月19日安積疎水(あさかそすい)の許可(きょか)を見ないで、74歳の時、病気でなくなった。
・同年10月開(かい)こんの許可がおり、安積疎水の工事が始まった。
閑哉の頌徳碑(しょうとくひ)(下長折諏訪神社の鳥居の横)
閑哉のお墓(はか)(下長折)(資料 小浜町郷土読本・岩代町史・小浜小学校沿革史・安積疎水の歴史)