平成13・14年度版 ふるさと郡山の歴史 -018/041page
6 南北朝〜戦国時代
▲宇津峰山の写真だけれど、どこの山だろう。 この山で何かあったのかな。 南北時代とどんな関係があるんだろう。
この写真は、宇津峰を西側の方角から撮ったものです。 この山の頂上には宇津峰城(星ヶ城、長平城)という城があったのです。
下の写真は現在の安積町笹川です。ここにも以前、城がありました。 宇津峰城や笹川城の歴史を振り返って南北時代から戦国時代の郡山の様子を見ていこう。
▲笹川城【宇津峰城】
鎌倉幕府が滅亡した跡、後醍醐天皇が「建武の新政」を始めると、多賀城(宮城県)が東北地方の拠点となり、 宇津峰は山城として整備されたようです。
1336年足利尊氏により、室町幕府(北朝)が開れ、南北朝の争乱が起こると東北地方の多くの武士が北朝側に つくなかで、後醍醐天皇(南朝)から東北支配を任されていた北畠顕家は、多賀城から霊山、宇津峰へと退却し、 1347年北朝側から総攻撃を受け、宇津峰城は落城しました。
その後、北畠顕家の弟、北畠顕信が南朝側の勢力を結集し、1351年、再び宇津峰城にたてこもりましたが、 1353年北朝側からこう攻撃を受け、再び宇津峰城は落城しました。
この二度の戦いにより安積地方は荒廃し、当時、安積地方を支配していた安積伊東氏も衰退したといわれています。【笹川城(笹川御所)】 ※「篠川」とも書きます。
南北朝の統一後、室町幕府の有力な領主であった大崎氏が、東北地方の支配権を握ると、しだいに幕府の命令に 従わなくなり、室町幕府は東北地方を直接支配から、鎌倉府の支配下に置くこととし、1399年鎌倉府から 足利満直、足利満貞を派遣し、大崎氏に対抗しようとしました。この時、足利満直は拠点を笹川へ、 足利満貞は拠点を稲村(須賀川市)に置きました。
後に、二人の仲が悪くなり、足利満貞が鎌倉府に帰ると、足利満直が一人で支配することになりましたが、 1440年、周辺の有力武士の連合軍に攻め滅ぼされ、室町幕府の東北支配の拠点、笹川城は滅亡しました。