平成13・14年度版 ふるさと郡山の歴史 -030/041page

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12 戦後

郡山進駐の米兵

▲郡山進駐の米兵

まさおくん

この写真の人たちは誰だろう?

博士

戦後、いわゆる進駐軍と呼ばれるアメリカ軍を中心とした連合軍が日本に駐留することになったんじゃ。 郡山市内にも約1600名のアメリカの軍隊が駐留したんだ。

郡山デパート(旧丸井デパート)

▲郡山デパート(旧丸井デパート)

郡山駅東の工業地帯(昭和30年代)

▲郡山駅東の工業地帯(昭和30年代)

敗戦後の郡山市民の歩んだ道は決して平坦ではありませんでした。とくに、郡山市の表玄関であり、繁華街である 駅前通りの被害は大きく、さらに軍需工場と化した工場街は、操業再開への見通しも立たず危機にありました。 こうして、昭和21年(1946)年を迎えましたが、この年は最悪の食糧危機の年となってしまい、しかもアメリカ軍隊による 占領という厳しい現実にもさらされました。

さらに戦後、外地から引揚げ者と復員軍人は3000人余にのぼりました。(昭和25年末現在)。 市民の主食は戦時中は一日二合三勺でしたが、戦後は一日二合一勺に減らされました。しかも、それは米ばかりではなく、 豆・麦・小麦・粉・乾パンなどの代替配給で、アメリカ軍から放出されたトウモロコシ、その他がありました。

食糧事情は、戦時中よりも悪化し、敗戦後は極端にひどくなってしまったんだ。

そのため、市民は買い出しによって、何とかその日その日をしのぐのが精一杯でした。


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