わたしたちの郡山市-032/068page
3.きょう土を開く
(1)用水路をつくる
明治のはじめのころの郡山ふきんの土地利用図
1873年(明治6年)ころの郡山の東の方(現在の郡山駅のあたり)は,人口がやく5,000人の大きな宿場町でした。ところが,町の西のほうには,見わたすかぎり安積原野が広がっていました。そのころ安積原野(現在の開成山のあたり)は,あれ地が広がり住む人もほとんどなく,きつねやたぬきが住んでいるようなところでした。
古くから米つくりは行われていましたが,水田につかわれる水は,小さなため池やせきの水をつかうしかありませんでした。そのため,つねに水不足に苦しみ,日照りがつづくといねはすぐにかれてしまいました。