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小作人住居(明治7年ごろ)
明治7年に開成社がつくった開拓者のための家です。ろうかも便所もない小さな家です。
資料 開拓農民の生活の様子
宮本百合子「貧しき人々の群」より
私共の先代は、このk杓の開拓者であった。(中略)この新開地は、諸国からの移住民で、一村を作られたのである。南の者も、北の者も新しく開けた土地という名に誘惑されて、幸福を夢想しながら、故国を去って集まって来た。けれども、ここでも、哀れな彼らは、思うように成功できないばかりか、前よりも、ひどい苦労をしなければならなくなっても、よそに移る勇気もうせて、仕かた方なしに町の小作の一生を終わるのである。それ故彼らは昔も今も相変わらず貧しい。(中略)
開墾などということは、そこが人間の生活すべきところとして適当であり、また栄える希望もあるところならばよいけれども、一冬が長く、地質も悪いようなところへ、貧しい一群を作ったとしても(後略)
※宮本百合子=中条政恒の孫
※k村=現在の桑野地区
※小作=地主に土地を借りて農作物を作っている人
安積野士族開拓誌より
秋から春にかけて、安積野には強い西風が止むことなく吹き荒れる。荒涼たる原野の一角を拓き、小さな家屋-粗壁のすき間から冷たい風が部屋を吹き抜ける。炉をかこむ荒むしろに貧しい家族が肩を寄せあって白湯を飲んでいる。数年前までは一町二反ほどあった田畑が、.今では屋敷まわりの畑三反ほどになってしまった。いま、この家族は開墾地に見切りをつけて故郷に帰るか、このまま小作者として生き続けるかの岐路に立たされている。
※拓き=開拓することと同じ意味
※炉=いろりのこと
※白湯=ただのお湯のこと
※一町二反=一ヘクタールと二十アール(約一二、ooou)
※三反-三十アール(約三、○○○u)
資料 開拓者のその後
開拓地出身地
移住戸数 残った戸数 広谷原・鳥取藩士族 69戸 26戸 対面原・二本松藩士族 10 1 対面原・棚倉藩士族 28 5 広谷原・高知藩士族 70 11 塩の原'会津藩士族 14 1 牛庭原・松山藩士族 18 12 大蔵垣原・久留米藩士族 40 0 南原・会津藩士族 16 3 青田原・二本松藩士族 18 1 山田原・高知藩士族 20 5 赤坂・高知藩士族 15 1 桑野・二本松藩士族 28 2 対面原・久留米藩士族 101 18 対面原・岡山藩士族 5 0 四十垣原・米沢藩士族 13 1 合計
465 87
開拓に失敗した人々のその後
○借金が増えて,自分の土地を売って[小作農]になる。
○郡山に住むことができなくなって,アメリカに再移住。
○農業をやめて他の仕事につく者。