歴史と文化の薫るまち 須賀川 -009/013page

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[県] 古寺山自奉楽【こでらさんじほうらく】

古寺山自奉楽

 大字上小山田に伝承された民俗芸能です。自奉楽は寺法楽の ことで、上小山田にある古寺山白山寺に奉納される踊りで、宝暦【ほうれき】2年(1752)当時の白山寺住職清光和尚【せいこうおしょう】が荒廃した寺の再建を 志し、村の子供を集めて踊りを仕立て、村々からの浄財を集めた時の踊りが古寺山自奉楽といわれています。この踊りは、平鍬【ひらぐわ】踊り、田植踊り、獅子舞【ししまい】の三部構成で、踊り子は8歳〜14歳ぐ らいの少年少女約50人からなり、男子は奴【やっこ】、女子は早乙女【さおとめ】とい います。奉納は33年毎の旧3月10日に行われるものとなってい ましたが、現在は毎年旧正月2日に奉納されます。  

[県] 関下人形【せきしたにんぎょう】

関下人形

 大字仁井田字関下の民家の土蔵と区の郷倉【ごうぐら】から江戸時代に流 行した人形芝居の「操【あやつり】り人形」がたくさん発見されました。主 なものは、人形の首【かしら】85点、肩板、手足、胴55点、衣裳82点な どで、人形の首は桐【きり】と槍【ひのき】で作られ、目、口、眉が動くようになっ ています。また、頭部の鬘【まげ】はキリで穴をあけて毛を植えた「植毛【うえげ】」 という方法で作られています。当時関下村には「結城座【ゆうきざ】」とい う人形芝居一座が結成され、県内各地を主として興行し、村を 挙げて維持振興に努力したことが古文書【こもんじょ】によって知ることがで きます。しかし、時代の流れとともに、大正12年〜13年ごろ 芝居の幕を閉じてしまいました。  

[県] 桐文木彩漆笈【きりもんもくさいうるしおい】

桐文木彩漆笈

 室町時代の修験者【しゅげんじゃ】などが用いた箱笈(仏具・衣服・食器などを入 れて背に負う箱)で、大きさは柱高75.8cm、間口69.3cm、奥 行35.5cmあります。物を入れる部分は三段造りで扉は三段とも 観音開きになっており、脚は前面部の二脚だけという珍しい笈 です。扉両側の羽目板【はめいた】に桝形格子【ますがたこうし】の地文【じもん】を彫り、花先【はなさき】風の刳形【くりがた】 を横連子【よこれんじ】に扱った鎌倉彫り式の彫刻が施されています。扉には それぞれ丸い輪郭をとり、その中に桐文を彫刻し金箔を押すといっ た格調高いものです。総体は黒漆塗りですが、柱の削面【そぎめん】、地文【じもん】、 刳形【くりがた】の部分は朱漆が塗られています。この笈はもと清水山行法 寺に伝えられたものです。  

[県] 絹本著色亜欧堂田善画像【けんぽんちゃくしょくあおどうでんぜんがぞう】

絹本著色亜欧堂田善画像

 亜欧堂田善(本名 永田善吉【ながたぜんきち】)は寛延【かんえん】元年(1748)須賀川に生まれ、 洋画と銅版画を学び、我が国の初期洋風画に大きな影響を与え た芸術家で、当時の白河城主松平定信【まつだいらさだのぶ】公のおかかえ絵師として 活躍した人です。この画像は文政【ぶんせい】5年(1822)田善の弟子である 曙山田一【しよざんでんいち】(遠藤田一)によって描かれたもので、画像の右上に「文 政5壬午年亜欧堂□曙山田一字如洋謹写」と書かれています。 田善は文政5年5月7日に亡くなっていることから、この画像は 田一が師を追慕するために描いたものと思われます。田善の墓は、 市内長禄町の長禄寺【ちょうろくじ】にあります。 

[県] 太田貞喜の亜欧堂田善コレクション
【おおたていきのあおどうでんぜんコレクション】

太田貞喜の亜欧堂田善コレクション

 本コレクションは、昭和51年医師太田宏一【おおたこういち】氏から須賀川市に 寄贈されたもので、宏一氏の祖父太田貞喜氏【おおたていき】が田善の銅版画を 郷土の誇りとして、私財を投じ散逸を防ぐために収集したもの です。全国的にみても質・量的に高い資料価値があり、我が国 の初期洋風画を研究する上で欠くことのできない作品群です。 主な作品には、銅版原版の洋人曳馬図をはじめ、銅版画の大日 本金竜山図・品川月夜図・西洋帆船図等があり、西洋の画法であ る遠近法をたくみに取り入れた立体感のある作品は、繊細で緻 密な作風と相まって見事な芸術作品となっています。 (写真は榎坂溜池之景)


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