歴史と文化の薫るまち 須賀川 -008/013page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

[国] 岩代米山寺経塚出土品【いわしろべいさんじきょうづかしゅつどひん】

岩代米山寺経塚出土品

 10基発見された経塚の内、三号経塚から出土した埋納品が一 括指定されました。埋納品には、青銅製経筒【せいどうせいきようづつ】、陶製外筒【とうせいそとづつ】、刀子【とうす】、銅鏡【どうきよう】、 銅製鍔【どうせいつば】、鉄鏃【てつぞく】があり、その内、陶製筒の外面にはヘラ状のもの で書かれた銘文がありました。これには、寺の名称(米山寺)、施入者【せにゅうしゃ】(経筒を埋納した人)の名前、年号(承安【しょうあん】元年)など書かれてお り、米山寺の存在や時代が明らかになりました。この銘文に書 かれた施入者と年号が飯坂町の天王寺経塚と桑折町の平沢寺経 塚から発見された陶製の筒にも書かれていることから、双方に 何らかの関連性があったものと注目されています。 

[国] 白河結城家文書附四月八日佐々宗淳書状
【しらかわゆうきけもんじょつけたりしがつようかささそうじゅんしょじょう】

白河結城家文書附四月八日佐々宗淳書状

 南北朝時代、南朝の正当性を唱える中心人物北畠親房【きたばたけちかふさ】の自筆 文書などが、市内本町の相楽家から発見されました。この文書は、 親房が常陸国【ひたちのくに】(茨城県)の小田・関の両城に約5年間滞在した際、 関東と奥州の境にあたる白河の地理的重要性と同地の領主結城 氏の勢力を考慮し同氏に南朝の正統を訴え、その軍事上の援護 を数回にわたって請願したものです。江戸時代になってから、 この古文書【こもんじょ】は徳川光圀【とくがわみつくに】によって調査されており、この事実は相 楽家に所蔵する佐々宗淳(光圀の家臣)自筆書状(古文書借用に対 する礼状)によって明らかにされています。 (写真は白河結城家文書)  

[国] 絹本著色釈迦如来十六羅漢図
【けんぽんちゃくしょくしゃかにょらいじゅうろくらかんず】

絹本著色釈迦如来十六羅漢図

 縦長の綿地3枚に極彩色でかかれたこの仏画は、蓮華座【れんげざ】にのる釈迦如来図と16人の羅漢(仏の教えを修行し煩悩【ぽんのう】を断ち切り 人々の供養をうけるに相応しい人)をそれぞれ8人ずつ配した2 枚図の三幅からなり,各々が表装されています。描写は各羅漢 の個性、服装など細部に行き届き、特に釈迦如来がのる蓮華座 は精巧で宋画の影響を受けているものと考えられます。また、光背【こうはい】の縁取りに截金【きりがね】(金箔を細く切って極彩色の金色線を現す) の技法を使っていること等から鎌倉時代末期の作品と考えられ ます。本図は東京の麻田駒之助氏(元中央公論社社長)から寄贈 されたものです。  

[国] 紙本墨書後水尾天皇宸翰御懐紙
【しほんぼくしょごみずのおてんのうしんかんごかいし】

紙本墨書後水尾天皇宸翰御懐紙

 この懐紙【かいし】(和歌・連歌などに書き付ける用紙)は、市内本町の相楽 家が所蔵する白河結城家文書【しらかわゆうきけもんじょ】(南朝方の北畠親房【きたばたけちかふさ】自筆文書等、昭和 53年国指定重要文化財)が、江戸時代に水戸黄門でおなじみの水戸藩 主徳川光圀【とくがわみつくに】によって調査(「大日本史」を編纂するための資料調査) された際、光圀から相楽家に贈られたものです。

   春草  分みれば     をのがさまざま花ぞ咲く
                       ひとつ緑の  野辺のおくさも

 後水尾天皇(1596〜1680)は、和歌に長じ、歌集「鴎巣集【おうそうしゅう】」などが あります。俳号は「玉露」といいます。 

[国] 土師朱墨二面円硯【はじしゅぼくにめんえんけん】 

土師朱墨二面円硯

 この硯【すずり】は、首藤保之助【しゅどうやすのすけ】氏(本市出身、阿武隈考古館の創設者、 昭和33年考古資料の大部分を本市に寄贈、市立博物館建設の基 礎となった。)が昭和15年8月24日、千葉県市川市真間の土取り 場から採集したもので、当時は甑【こしき】(米などをむす器具)の底と考 えられていました。その後の研究で珍しい形の視であることが わかりました。直径13cm、中央に堤があって硯を二分している 素焼きの二面円視です。二面のうち右側には墨、左側には朱が残っ ており、また右側の下方には小さな穴があることから、紐を通 して下げたものと考えられています。  


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は須賀川市教育委員会に帰属します。
須賀川市教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。