須賀川市人物読本 先人のあしあと -077/134page

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 そのころ、飛行機はまだ危険(きけん)な乗り物でしたが、アメリカからアートスミスという曲芸飛行家がきて日本の空を自由に飛んでみせたのです。風の強い日でも横転(おうてん)、逆転(ぎゃくてん)、宙返(ちゅうがえ)りをして、人々をおどろかせました。スミスのみごとな空のわざは、子供達のゆめをしげきしました。英二少年もその一人でした。

 英二は、小学校を終えると上級学校にいかないで東京の日本飛行学校に入りました。その学校は、玉井清太郎という若い先生が一人だけ、キャメロン二十五馬力(ばりき)のおんぼろ飛行機一台だけという学校でした。

 学校は六か月間でしたが、月(げつ)しゃは一か月百円で六か月前納(のう)、寄宿費(きしゅくひ)一か月十三円でした。そのころの六百円は大金だったのです。

 英二の家の人たちは、たいへん反対しましたが、ついに飛行学校の生徒になってしまいました。

 しかし、学校のひどいようすや、みじめな練習機(れんしゅうき)を見て心細くなってしまいました。朝暗いうちに飛行場にいっても潮(しお)が引かなければ練習できない、その上エ


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