須賀川市人物読本 先人のあしあと -087/134page

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円谷選手は二十四才、とてもはれやかなすがすがしい表情でした。

 アジアで初めて開かれた東京オリンピックは、近代オリンピック史上、第十八回目の大会です。昭和十五年に東京で開かれる予定だった第十二回大会は、第二次世界大戦のため中止となってしまいました。

 円谷選手は、その戦争中の昭和十五年五月、須賀川市大町の農家に七人兄弟の末子として生まれました。お父さんは、若いころ軍隊(たい)生活を経験したこともあり、子どもたちの教育には、いつも深い考えをもっていました。

 あのマラソンのとき、人々は「円谷選手は、どうしてうしろをふり向かなかったのだろう。うしろを見ていれば……。」と疑問(ぎもん)に思って言っていました。しかし、円谷選手は、これまでのどんなレースでも、うしろを見ることはしなかったのです。陸上の選手になってからずっと、お父さんの教えを守って走っていたからです。高校一年生のある日、陸上部に入ろうと思ってお父さんに相談すると 「走るからには前だけをみて走れ、絶対(ぜったい)にうしろを見るようなことはするな。うしろを


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