須賀川市人物読本 先人のあしあと -095/134page
身長一メートル六十四センチ、体重五十六キログラムがベストだった小さな青年は、短い、あまりにも短い人生をかけぬけ、急いで通り過ぎて行ってしまいました。昭和四十三年一月九日の午後、須賀川市民は、テレビ、ラジオのニュースに自分の耳を疑(うたが)いました。
間もなく、自衛隊体育学校長の悲しい報告でその真実を知りました。「父上棟、母上様、幸吉はもう走れません。……幸吉は父上様母上様のそばでくらしとうございました。」い書は万年筆で書かれ、一字の乱れもなく、家族や自衛隊の上官あてに、きちんと机の上に置かれてありました。国民から大きな期待を受けた円谷選手は、体を悪くしてしばらく入院していましたが、思うように回復していなかったのです。責任感の人一倍強かった円谷選手は、一日も早く体をなおして、国民の期待にこたえようとしていたのです。
四年ごとに開かれるオリンピックは、次にメキシコ大会と決まっていました。そのことを思うと、入院していても心の安まることはなかったのです。