須賀川市人物読本 先人のあしあと -130/134page

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    寝(ね)ころべば躯(からだ)板(いた)の如(ごと)し春の宵(よい)    昭和四年作

 牡丹園を続けていくために、源太郎はたいへんな苦労をしていました。「たまたまつかれをとるために、ごろりと様になると、まるで自分の体が、一まいの板のようにこちこちになっている」と苦労をよみあげたものと思います。春の夕方が美しいだけに、源太郎の心の苦しみが、にじみでてくる名句です。

 牡丹に一生をささげ、なんのむくいも求めなかった源太郎は、昭和十四年十二月六日、六十四才でこの世を去り須賀川の長禄寺にほうむられています。

 牡丹園の経営が非常に苦しかったときの須賀川市長であった岡部宗城(おかべしゅうじょう)は、牡丹園を財団法人化(ざいだんほうじんか)しようと考えました。そして須賀川市の牡丹園としてのちの世まで残そうとする意見がもりあがりました。

 しかし岡部市長は、実現(じつげん)しないうち、亡(な)くなりました。その後、澤田(さわだ)三郎が市長となり、昭和三十二年に財団法人化し、須賀川牡丹園となりました。

 その後の牡丹園は、年々りっばになり、須賀川の名勝(めいしょう)として市民の心に安らぎ


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