長沼町勢要覧 -021/044page

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景色

河街道」とも呼ばれた道は、会津から岩瀬郡 攻略の機をうかがっていた蘆名氏が勢至堂峠 を切り開いたことに始まるようです。その後、 この地方の覇者となった伊達政宗が、天正一 八年(1590)に豊臣秀吉の命を受け、本 格的に開削・整備するに至って、遠距離交通 路としてこの街道が確立したと考えられます。

江戸時代の初期には会津領と白河領に分か れたり幕領となったりしていたこの道筋も、 元禄一三年(1700)の長沼藩成立ととも に長沼宿に陣屋が置かれると、岩瀬郡西部の 交通の要衝としていっそうのにぎわいを呈し ます。特に、陣屋(現長沼町役場の位置)や 本陣のほか、問屋や主な旅籠などが集中して いた内町と金町は、宿駅の中枢機能を果たし ていた一帯でした。享保一五年(1730) の資料によると、郡内では須賀川宿に次いで 人口が集中していたことがわかり、その繁栄 ぶりを知ることができます。

◎明日へ伝えたい、山間の小さな城下町

そしていま、風雲の歴史を見つめてきた長 沼城址に、芥川賞作家・中山義秀の文学碑が あります。「山間の小さな城下町に/初秋の風 のおとづれを/聞くやうになつた」―長沼 を舞台とした小説『碑(いしぶみ)』の一節 が、そこに刻まれています。

義秀にとって、長沼は遠祖の地。祖父の代 に大信村に移りましたが、それ以前は代々、 ここに暮らし、町の永泉寺には、今も祖先の 眠る墓があります。昭和三十七年、義秀は、 町の招きで長沼を訪れ、文化講演会の演壇に 立ちました。期せずして巻き起こった割れん ばかりの拍手、そして一瞬、温かい親近感が 生まれ、せき一つない会場に感激した義秀は、 「私の祖先は代々、長沼の陣屋侍として務め させていただいたが、私は郷里を忘れたこと がない。けれども何もできなかった。それに もかかわらず、今日こんなに歓迎してもらい、 心から感謝でいっぱいです」と語りかけまし た。

義秀が綴った「初秋の風のおとづれ」が聞 こえるような、町の静かな佇まいは、いまも 変わりません。その「山間の小さな城下町」 のイメージを次代に伝えようと、町では歴史 民俗資料館を、平成七年にオープンしました。 歴史は、町の財産。古人がたどった“ながぬ ま物語”を、未来へとつないでいきたい―。 それが私たちの変わらぬ願いです。

文学碑の前に立つ中山義秀
文学碑の前に立つ中山義秀

長沼町年表
西暦 年号 事  項
  景行朝 日本武尊東征のおり、この地に桙を立て桙衝と名づける。
1016 長和5 頼家安倍貞任を討ち桙衝紳社に奉賛。
1483 文明16 長沼をめぐり蘆名盛高と二階堂盛義が戦う。
1541 天文10 蘆名盛舜、長沼城を再興。
1566 永禄9 長沼は蘆名領となり新国貞通の守城となる。
1590 天正18 長沼城に蒲生四郎兵衛郷安、後に蒲生主計(上野田)一万石をおく。
1598 慶長3 長沼に信州長沼城より島津恭忠が入る。
1643 寛永20 長沼地方は白河藩主、松本(榊原)忠次領となる。
1649 慶安2 長沼中心の三十一ケ村が幕領となる。

長沼代官として設楽源右衛門をおく。

1698 元禄11 横田領が成立。
1700 元禄13 長沼藩成立。
1702 元禄15 長沼藩に百姓一揆おこる。
1719 享保4 凶作となる。
1731 〃16    〃
1783 天明3 凶作、長沼領内の打撃深刻化する。
1836 天保7 凶作、水戸藩より千五百俵の稗を拝借する。
1865 慶応1 矢部富右衛門、長沼焼を再興。
1869 明治2 松平頼孝。長沼藩知藩事となる。
1889 明治22 旧長沼、江花、勢至堂、志茂、小中村の五村を合併して長沼村となる。

旧桙衝、矢田野、木之崎、横田、掘込の五村を合併して桙衝村となる。

1901 明治34 長沼村町制を施行。
1934 昭和9 大凶作となる。
1955 昭和30 旧長沼町と旧桙衝村が合併、長沼町となる。

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