長沼町勢要覧 -020/044page

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◎長沼城を巡る奥州統一の夢

町の北部、西から東へのびる丘陵の先端「日 高見山」に主郭を持つ長沼城。戦国時代から 江戸初期にかけて栄えたこの城は、別名千代 城、牛臥城とも呼ばれます。鎌倉時代初期の 文応元年(1260)長沼中納言時の築城と も、また下野国長沼庄(現在の栃木県二宮町) から移ってきた長沼氏が南北朝時代(1336〜1392) に築いた城ともいわれ、その 起源ははっきりとしません。

長沼は、白河、岩瀬、会津、安積と通ずる 交通の要衝です。郡雄割拠の戦国時代、会津地方の豪族 蘆名氏が山脈を越え、仙道(中通り) 進出を展開するなら当然、押さえなければならない要地でした。また、北関東の豪族、常陸(茨城県)佐竹氏や南奥州への勢力拡大を目指す伊達氏が、それぞれ北進策、南進策を企てる時、長沼城を無視すれば、長沼方面から側面攻撃を受けることになります。南奥州の武将たちは、この軍事上、交通上の要地をめぐり、激突を繰り返したのです。

応永年間(十五世紀始めごろ)、勢力の弱まっていた長沼氏を追い、岩瀬郡西部を支配していたと見られる二階堂氏と、蘆名氏が対立。山脈を挟み、会津と岩瀬、お互いの地方への進出拠点にしようと、当地を巡る争奪戦が繰り広げられます。この争いは、永禄年間(十六世紀)に入ると伊達氏の参戦によって、さらに激烈を極めてゆきました。

この攻防が一つの転機を迎えるのは、永禄九年(1566)のこと。蘆名氏と伊達氏の和睦が成立。一方、岩瀬郡西部での勢力を失いつつあった二階堂氏は、蘆名氏に屈服して長沼割譲を約束し、本拠須賀川に帰っていきました。以後長沼は、蘆名氏の仙道攻略と会津防衛の拠点として、また北関東の佐竹氏を迎え撃つ重要な基地として発展してゆきます。

長沼を制し、会津、岩瀬、安積に威をとどろかせた蘆名氏。しかし天正十七年(1589)の“東北の関ケ原”位置づけられた、磐梯山麓磨上原の戦いで、最強・最後の敵、伊達政宗が率いる軍勢に大敗を喫して滅亡。長沼城主新国氏は、伊達氏に服属しました。翌天正十八年には、戦国の霸者・豊臣秀吉が、奥州仕置のため長沼城に入城。新国氏の所領は没収となり、秀吉の片腕と目される蒲生氏に与えられました。その後支配は、慶長三年(1598)の上杉領、慶長六年(1601)には再び蒲生領と変遷してゆきます。そして元和元年(1615)の「一国一城令」により、乱世風雲の時代にその名をとどめてきた長沼城も、その栄光に幕を閉じてしまうことになるのです。

◎会津と白河をむすぶ街道の町

そして、長沼町のもう一つの歴史は、会津と白河を結ぶ交通の要衝としての“長沼宿”を中心にたどることができます。どちらを目指しているかによって「会津街道」とも「白

景色


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