長沼町の伝説 -079/224page
たとき丸い石で三回なでると、必ず治るといわれているので、今でも子どもたちの姿が散見される。治 ると河原から丸い石を探して来て御礼に上げるのである。
天神様は学問の神様として、今でも進学の合格を祈る子どもたちが多い。菅野家には鎧兜、太刀、槍、 鉄砲、馬具類など沢山の家宝があったが、明治四十三年の火災で多く失った。書画類も多くあったが、 現有するのは、狩野貴信の大黒天像だけが残っている。
この話は私の四代前のコン婆様に聞いた話である。コン婆様は、氏神の勝利を知らせた「コンコン」の 鳴声にちなんで付けた名前であった。大正五年、八十六歳でこの世を去った。
(話者 菅野精一)
熊田稲荷社の由来 《古舘》
桙衝舘の屋敷の西にあって、舘の堀の土手の上に稲荷様の祠がある。熊田一族の氏神様である。昔は 大きな社があったといわれる。
この稲荷様は、白河城主、松平定信公が、桙衝鹿島様の御分霊を白河に遷す時、この社に参拝して、 道中受箱を奉納した。この受箱は、今も稲荷様の祠の中に納められてある。
これは楽翁公の道中日記に記されてあるという。一説には、熊田稲荷大明神は、古館の館主、塚原伊 豫守が勧請したともいう。