長沼町の伝説 -122/224page

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現したという。大師は神靈となして、桙衝神社の御身体として祭った。鉾が出た所を「下の沖塚」と呼ん でいる。

 人皇六十代醍醐天皇の延喜年間には、四十余郷八十余村の総鎮守となった。後、当地を「鉾衝」と書く ようになったところ、神事祭礼の折、真剣を持っての争いが多く起こり、神前を穢すことがたびたびあ った。

 慶長元丙申年領主榊原忠次公の時代に、延喜式に記載する所の文字「桙衝」に復したところ、神事祭礼 には、争いが納まり太平になった。元祿三庚午年六月一日、鹿島大明神を桙衝神社に合祀した。

 さらに元文四〇末年神主室田薩摩守定信、長楽寺第十九代別当祐鏡、庄屋安藤孫右衛門栄信、上京し て大神宮の神号を賜わった。十月八日帰国して、銭神守に假屋を建て、お迎えすることにし、十月二十 七、八、九日の三日間、遷宮式を行って、鹿島大神宮の名称で呼ぶようになった。明治の廃仏の折、神 仏分離によって、桙衝神社の名称に復した。

 しかし、今でも鹿島様と呼ばれている。旧白河領なので、代々の領主の信仰厚く、たびたび修理修覆 して、現在のような堂宇となった。馬場先の石橋は、夜泣き子、又疫病にかかったとき、この橋の下を 三度くぐると治るといわれ、その習慣があった。

 またこの神社に伝わる太鼓獅子は、閏年に出され、奈良朝時代から伝承されたといわれる。伎楽風の 獅子神楽で、祭礼の行事は、本殿から二百メートル下の参道に設けられる(昔は、古町の姥神様の所に 御假舎が設けられたといわれる)御假舎に御神輿を安置して、宮司の発渡祭の祝詞の儀式により開始す


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