長沼町の伝説 -178/224page
当時の干魃の凄まじさは、言語に絶するものがあり、 読む人の目をおおうものがある。徳川末期は政情不安 から農村の行政秩序の乱れなどにより、権益権限の自 己主張がまかり通る時代であった。
嘉永元年の大干魃は、必然的に水論争を生む要素を 持っていたのである。掘込は矢田野に流入する水を、 車堰を設けて一滴も流さず、矢田野村民は、その対策 に苦慮した。庄屋を通し、水車堰の撤去を申入れたが、 相手にされず、このままでは村民の死活問題だとして、代官所に申し立てたのである。
この時、矢田野を代表したのが、小林嘉四郎であった。古文書によれば、両村ともに死活問題であり、 関係庄屋、代官所などの調停もままならず、矢田野代表も困り果ててしまった。
その時、小林嘉四郎の村を愛する心意気と、理路整然とした社会秩序維持のための理論と信念が代官 所のとり上げるところとなり、村民の待望していた水利権の確立がなったのである。寝食を忘れ、家業 を投げての奮斗努力は村民の賞揚するところとなった。その功績は矢田野村金剛山茂寧寺住職が授けた 戒名「瑞祥軒観林義勇居士」によってもよくわかるだろう。
(話者 小林大助)