長沼町の伝説 -177/224page

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    身はここに首は野原にさらすとも
       思い果たさずおくものか。

 この日、このさまを見んものと、近郷近在より大勢集ったが、後手にしばられた千左エ門に対したし おき人の持つ刀に逆手の水がかけられ、やおら首落さんと刀が振上げられた瞬間、目をおおって正視で きなかったという。千左エ門の無念骨髄に徹してか、切り落とされた首が地にころがりながら二口三口 物をいうように口を動かしたという。

 その首はただちにさらし首の刑として、首洗いの池にて洗われ、台に乗せられ、見張り番つきで首さ らし場でさらされたという。ここに松の木があったが、戦時中、応召献木として、数人の勤労奉仕者に よって伐り倒された。その太枝切りの際、鋸がピンとはねとび探せとも見つからなかったという。根は 松根油をとるため掘おこされ、その場に放置されてあったが、いつの間にか姿を消したという。

 後日がたり袋田の庄屋の屋敷頽れたりという。

        (話者 桑名四郎)

水利論争 《矢田野》

 嘉永元年の大干魃による、矢田野、掘込の水争いの顛末は、小林家に代々伝えられ、その当時のよう すを詳しく記述した古文書も発見されて、言伝えは事実であったことが判明した。


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