ふるさと昔話 - 042/056page

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  にわとり権現


 矢沢字和久に通称「にわとり権現」がまつられている。地元の人達に聞いても祭神を知る者がない。ただ「トリッケ」などといわれる百日咳を治してくれる神様として信仰が厚く、患者の名でにわとりの絵を書いて奉納し、近所から湧き出る清水を汲んで飲ませる。
 同じような神社は各地にまつられており、社名も矢沢のように根渡神社もあれば庭渡もある。古い文献によると「袋田村に、二羽多利、大権現鎮座す」とあり、また安達郡白沢村稲沢地区には三渡神社というのがある。おそらく同じ祭神であろうと推考される。

 神話のことはいろいろあて字が多くて、どれが本当という決め手はないが「八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)」であり、もともとは思考力、想像力に富んだ神とされているが、中には思金神(おもいかねのかみ)と書かれているのもあって、経済方面の神と解する向きもあるが、「二羽多利」を考え合わせると必ずしも現代的解釈ともいえない。

 この祭神は高御産巣日神(たかみうますひのかみ)「高皇産霊」と書くのもある。御子であり、天照大神の側近に奉仕して信頼が厚く、大神が天の岩戸にお隠れになった際、天の安之河原に集った神々にいろいろと知恵を授け、演出の指導的役割を果した。
 たくさんの長鳴鳥(にわとり)にトキをつくらせ、夜明けのまねをやらせたのもこの神となっている。
 それがやがて、にわとりを奉納することになったとも考えられる。

 庶民の信仰は時代と共に変化するもので、神話にある長鳴鳥がやがてトリッケに結びつく過程に興味があるなどと書いたら、神様に叱られるだろうか。

 


  北横田のケチ田


 帳簿上は立派な田んぼ、北横田字遠公三九番七〇四u 評価額七七、六五一円、課税標準価格二八、三五四円(昭和五十八年調)坦家から菩提寺である旧桙衝村横田、護真寺に寄進した土地である。
 お寺の跡だったという話もあるが、あまり離れない須田家のうらにも満願寺跡というのがあり、そんなにいくつもあったものか疑問が残る。
 元の地目は山林であったが、戦時中疎開して来た瀬川という人が借り受けて畑に開墾食糧自給の一助にと耕作したがポックリ急死してしまった。

 それがそもそもケチの始まり。
 何かのたたりでもと話題になったが、上妻伝寿さん(弘一さんの父)が、気にしないと借り受けて楮(紙の原料)を植えた。
 ところが嫁にやった娘の子が住宅付近の溜池に入って亡くなった。


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