ふるさと昔話 - 041/056page

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 その後、犬がいなくなってからも地元ではしばらくの間そのうつろを「お犬さん」と呼んでなつかしがり、思い出話をしていた。
 松は明治末まで健在だったが、平坦部が開墾される際伐り倒され、うつろも削り取られて、今そのおもかげが残っていない。
 しかし、地元のとしよりは、開墾された窪地一帯を「おいのくぼ」と呼んだと語り伝えられている。
 この語源は、お犬さんの住んだうつろに続く窪地なので「お犬窪」が詑ったものと考えられるのである。

 


  彦右衛門捕物帳


 諏訪峠は天喜年中、八幡太郎義家が安部貞任征討の際、戦勝を祈願し、峠の頂に諏訪明神を勧請して祝ったのが諏訪峠と呼ばれることになった所である。
 中通りから会津に通ずる道路は数多くあったが、諏訪峠越えは脇街道の一つであり、ふだん須賀川から白方郷を経て舟津港に通ずる主要路線であった。

 峠には茶店があり、ある時銃を持った三人組の強盗が入った。
飛び道具には抵抗できないので、有り金を渡したが店の者も気丈な性だったらしい。二人で後を追ったところ、畑田のお寺近くの松林に入り、仲間三人でお金の山分けがはじまったのをつき止めた。

 そこでこっそり畑田の庄屋に告げたところ、庄屋は屈強な者五、六人を手配した。その中に彦右衛門(俗名酉吉)という人が入っていた。この人は体格もよし、度強もよし、長沼領主の飛脚を勤め、足も達者、多少は捕物の心得もあったらしい。六尺余りの棍棒を携え、道路脇に忍んでいると果して三人組が通りかかった。
 道路に立ちふさがって仲間を呼び集めて、
 「何用あってここを通るか」とたずねると、
 「会津の者だが浜へ魚を仕入れに行く」との返答だった。
 そこでありったけの大声で
 「諏訪峠の強盗め!覚悟しろ!」とどなったところ
 「やっちまえ」といったものの火縄銃では突差に撃つこともでききない。六尺棒を振り廻したところ、一人があわてて逃げ出し近くの溜池に飛び込んでしまった。
 それを滅多打ちにして後ろ手にしばり、長沼の番所に突き出したところ、吟味の結果仲間の者も御用になった。

 彦右衛門さん、この手柄話が一生の自慢だったという。


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