ふるさと昔話 - 044/056page
北横田にのこる伝説
この稿を収集するに当り、次の各氏に御協力を戴きました
上 妻 一 男 佐 藤 一 男 須 田 功 英 上 妻 喜 文 上 妻 鉄 男 参考文献
北横田御料絵図 「須田功英氏蔵」
日本の民俗福島 岩崎敏夫著
一、北横田一里壇と弘法壇及び古屋敷伝説について県道木之崎館ケ岡線と村道北横田大久保線の十字路の西方十五メートルの所に旧街道の十字路がありました。
その南西の所に北横田一里壇跡があり、又その北側旧街道沿いに弘法壇と言われる壇と泉があり(字弘法壇二十九番地)さらに旧道跡百五十メートル程北方の丘が古屋敷と言われております。一里壇は、昭和二十八年頃開田されて、現存されておりませんが、当街道は、旧茨木街道といわれており壇の大きさや規模は長沼町勢至堂の一里壇とほぼ同等であったど記憶しております。
弘法壇は、旧道に面し東側に高さ一メートル長さ十メートル位土堤になっており、その下の一枚岩の割れ目より、多量の泉が湧き出ておりました。
この清水が弘法壇の清水と言われ、いかなる日照りにも干上る事もなく周囲の水田をうるおして来ました。
この壇は、その昔、弘法大師本氏行脚の折この地にて休息し、この清水にて喉の渇きを癒したと伝えられ、現在もこの土地の字が弘法壇となっております。古屋敷跡は、字山下百参番地周辺であり、後に山を控えた日向の丘にあり、すぐ前の川は志茂川が唯一ケ所の一枚岩の技滑の流れとなっており、川の中程に大きな清水がありました。
当古屋敷は、北横田地区唯一の弥生式土器出土地であり、県にも登録されております。
当地の人々が、この地を俗称古屋敷と呼んできたのは、先住民の住居跡と考えていたのではないかと思われます。