石川町の文化財 - 002/010page

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「 歴  概 要 」

 石川町には数多くの遺跡と文化財があり、歴史の長さと豊かさを私たちに教えてくれます。

 まず埋蔵文化財として代表されるものは、沢井の北方、阿武隈川沿いの新屋敷地内に、前方後円墳2基と円墳7基からなる大壇古墳群(県史跡)が、また、同じ阿武隈川沿岸の中野地内には、円墳9基からなる横穴式石室を持つ悪戸古墳群(県史跡)があります。さらに、阿武隈川と社川との合流点には、弥生時代中期の鳥内遺跡(県史跡)があります。鳥内遺跡からは、狭い範囲にもかかわらず200個以上の壷や甕が出土ししかも、地元の土器と一緒に東海地方や九州地方の土器も確認されました。これらの土器の中には人骨が収納されていたことから、墓跡と考えられています。

 中世石川地方の領主、石川氏は、前九年の役(1051〜1061年)に源頼義・義家に従った源頼遠の子有光が土着したと伝えられ、子孫が豊臣秀吉の奥羽仕置きで領地を没収されるまで勢力をはった武士団です。石川氏が残した遺産の一つに石造塔婆(板碑)があります。沢井の安養寺(天台宗)門前には、応長2年(1312年)銘のある阿弥陀三尊来迎石造塔婆がありますが、これは石川地方に多い線彫りの石造塔婆で、頭部が三角形で切り込み線が入った関東系のものです。なお、石造塔婆は町全体で約300基が点在しています。

 石川氏の本城である三芦城跡は、中心部の三方が急な崖で西北が空濠で区切られた山城です。本丸跡には石都々古和気(いわつつこわけ)神社があり、応永30年(1423年)銘の銅製鰐口(県重文)が納められています。この神社の宮司である吉田家は、自由民権運動家吉田光一の生家で、光一は河野広中とともに関東北最初の政治結社石陽社を設立し、福島事件で弾圧されました。

 長泉寺(曹洞宗)には、歴代城主の墓地(町指定)があり、近くにある高田サクラ(県天然)も巨木で知られています。また薬王寺(真言宗)には、鎌倉末から南北朝にかけての版木(県重文)があり、それには「東奥仏法弘通檀林石川薬王寺大坊蔵板」と彫られています。

 これらの文化財は石川町の歴史を物語る貴重なものであり、この他にも数々の文化財が存在しております。

 祖先が残してくれた貴重な文化財は、一度失えば二度と取り戻すことができない財産です。文化遺産を大切に保存し、未来に引き継ぐことは現在を生きる私たちに課せられた責務ではないでしょうか。

 私たちの身近に埋もれている文化財に注目され、文化財保存に特段の関心とご協力をいただきたいと思います。


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