第3・4学年社会科学習資料 わたしたちの玉川村 - 081/102page

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(2) 水害をふせぐ

・あぶくま川の河川(かせん)工事の歴史(れきし)
 玉川村の西側を南から北に向かって、大きなあぶくま川が流れています。昔の人々は、このあぶくま川の水害を防(ふせ)ぐために大変苦労(たいへんくろう)してきました。

@ 江戸時代の小高村の工事の記録(きろく)をもとに、その様子(ようす)を調べてみましょう。

 あぶくま川にのぞむこの地方の沿岸(えんがん)の村々は、曲(ま)がりくねってあばれまわる大きな川をかかえているだけに、出水のたびに大きな被害(ひがい)を受(う)けていました。
 特に、小高村はたび重(かさ)なる被害を受けて苦労(くろう)していました。他の大きな川は、幕府(ばくふ)が大名に工事をさせていましたが、このあぶくま川は、元禄(げんろく)の頃(ころ)までは地元(じもと)の藩(はん)による工事が行われてきました。またその間にも、小高村の代々の名主の首藤家(しゅどうけ)が、私財(しざい)を投(とう)じながら村普請(むらぶしん)を行ってきました。
 しかし、たびたびの大洪水(こうずい)で大きな被害が出て間に合わなくなり、幕府直(ちょっ)かつの大きぼな普請が行われるようになりました。これには、近くの村ばかりでなく、幕府直かつの蓬(よもぎ)田村や小平村などのように遠くの村からも、たくさんの農民が集められました。
 各村から集まってきた人々は、工事場所と日数が割り当てられ、蓑(みの)・笠(かさ)・鉈(なた)・鍬(くわ)・鎌(かま)などの道具(どうぐ)を持ち寄り、空俵(あきだわら)・縄(なわ)・柴木(しばき)などの材料も自分たちで持って来なければなりませんでした。弁当も、もちろん自分持ちでした。特に遠くの村々の人たちは、前夜(ぜんや)のうちに集合し、夜通し歩いて、明(あけ)六ッ(午前6時)までに工事現場に到着(とうちゃく)しなければならず、農民にとってはたいヘんな負担(ふたん)でした。
(玉川村史)

A あぶくま川の改修工事につくした首藤敬助(しゅどうけいすけ)

 小高村の6代目名主になった首藤敬助は、父の意志(いし)を受(う)けついで、村民のためにあぶくま川の改修工事や、田畑の保全管理(ほぜんかんり)や幼児養育(ようじよういく)などに熱心(ねっしん)に取(と)り組(く)みました。しかも、村としての費(ひ)用が足(た)りなくなると、それまでに貯(たくわ)えてきた自分の財産(ざいさん)を投(な)げうってまで、それらの事業をなしとげたのです。
 明治30年6月3日、首藤敬助の功績(こうせき)をたたえ、後世(こうせい)に伝(つた)えるため、小高の大雷神社境内(けいだい)に頌徳碑(しょうとくひ)が建(た)てられました。
  頌徳碑(しょうとくひ)

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