わたしたちの平田村 - 085/107page
きょうどを開いた人々の苦労についてしらべよう。 (1) 乙空釜開たく
今から百ねんも前のことです。現在の乙空釜(おつそらがま)部落は、その当時「荻(おぎ)の目」とよばれていました。荻の目という辺(あた)りは、国有林といって国がおさめている山でした。山は国のものなので、人々が勝手に住んだり、たがやしたりできる土地ではありませんでした。
ところが、下蓬田(しもよもぎだ)村、西山村、四辻新田(よつつじしんでん)村など近くに住む人々が、何のことわりもなく使用していました、それは、その近くには国有林が多かったためと、大地主がいて広い土地を所有していたため、新しくたがやすことのできる土地が少なかったからです。長男が一人前になると、その家代々所有の土地をゆずり受けられますが、二男、三男は分家というかたちで家を出なければなりません。分けてもらえる土地がないと、二男、三男は新しく土地をさがして、田畑にする土地をたがやさなければならないのです。それで、近くの村に住む人々が、国にことわりもなく荻の目のあたりを林場として使用していたのです。
いつまでもことわりなく土地を使用しているのは悪いと考えた人々がいました。塩田村、四辻新田村、下蓬田村、小平村、西山村、須釜(すがま)村の人々11人が集まって、明治17年(1884年)県令(けんれい)、三島通庸(みしまみちつね)に対して「官有地拝借願(かんゆうちはいしゃくねがい)」を出しました。ところが、その願いは、聞き入れちれませんでした。
人々はあきらめないで、次の年にもう一度、願い書を出しました。すると、今度は、開たくすることがゆるされたのです。ゆるされたのは、下蓬田分として5人分約592ha、大井沢分として5人分(18.8ha)、西山分として5人分(51.7ha)でした。こうして、各村より入植者(にゅうしょくしゃ)が入り、個人持分の土地が決まったのです。
あわせて、県令より「官有地貸地心得書(かんゆうちたいちこころえしょ)」が発せられました。入植者たちは「立木御払下願(たちぎおはらいさげねがい)」を県令に出し、これがゆるされて、開たくが始まったのです。
この時の入植者は、25人でした。
明治29年(1896年)には、入植者が、入植者のちかいをしるした「受書(うけしょ)」を作り、開たくの心得を役所に出しました。次の年には、入植者が集まり、区会を開き、いろいろなことを話し合う会をもつようになりました。この時の出席者は21人でした。
明治30年(1897年)になると、さらに入植したい人も出てきて「追加願(ついかねがい)」を出す話し合いもされました。
大正2年(1913年)には、21人の人々が集まって、郡有林関係協議会(ぐんゆうりんかんけいきょうぎかい)が開かれました。
こうして、地いきが開たくされていき、昭和14年(1939年)には、入植者31人の協力で「荻の目開拓記念碑(かいたくきねんひ)」を建てるところまでこぎつけたのです。他の地いきでは、開たくを始めてもうまくゆかずに、とちゅうであきらめて入植者が去っ