わたしたちの平田村 - 086/107page
てしまうところもたくさんありました。
昭和19年(1944年)になると、戦争のため疎開してきた人々も、この地に集まってきました。そこで、次の年には、開こんする土地をふやしたい人も出てきたので、20人で開たく組合がつくられました。
86−1 荻ノ目開拓記念碑(ひ)―ととのっていく乙空釜―
入植者の子ども達は、7キロメートル以上の山道を蓬田小学校や、四辻分校へ通っていました。朝タと一時間半もかけて歩くことは、小さな子にとっては、たいへんなことでした。
昭和22年(1945年)になって、遠藤ミナさんの家をかりて「乙空釜季節分教場(きせつぶんきょうじょう」)」が開かれることになりました。これは、冬の期間だけ開かれるものでしたが、深い雪道を通学しなければならなかったことを考えると、たいへんうれしいできごとでした。1年から3年までの子ども達18人が、一つの学級で勉強しました。
次の年には、一年間通える「乙空釜常設(じょうせつ)分校」となり、地いきの人々は、たいへんよろこびました。昭和25年(1954年)には、分
86−2 音楽発表会
86−3 昭和23年蓬田小学校
乙空釜分教場母親学級