わたしたちの平田村 - 087/107page
校の校舎(こうしゃ)が新しく建てられました。
当時のお金で、94万円かかりました。この年には、部落集会も開かれ、47人もの人が出席しました。
昭和29年(1954年)には「平田村立蓬田小学校乙空釜分校」と、名前があらためられました。昭和30年(1955年)になると、乙空釜開たく部落の全戸に、電気が入りました。これまで、電気導入委員会(でんきどうにゅういいんかい)がつくられ31戸が加入し、努力を続けて、電気が入るようになったのです。全部で277万円というたいへんなお金が、かかりました。
87−1 部落運動会昭和40年(1965年)には、へき地集会室が、でき上がりました。これには、250万8000円の工費がかかりました。この集会室は、分校屋内体育館としてもつかわれています。
昭和42年(1967年)には、分校の校歌がつくられ、声高らかに歌われるようになりました。
昭和51年(1976年)には、平田村簡易(かんい)水道浄水場(じょうすいじょう)と配水池(はいすいち)が完成され、平田村の水道に、大きく役立っています。
以上のように、部落がととのってきて、昭和53年(1978年)には、乙空釜開たく100周年記念式典が行われました。この時の戸数は51戸になっていました。そして同時に、乙空釜分校開設30周年記念式典も行われました。
その後、昭和57年(1982年)には、部落の道路の一部がほそうされ、交通の便もよくなっています。次の年には、部落集会所も新しくでき上がりました。注(1)…1町は、およそ10000u
1反は、およそ1000u
1畝は、およそ100u
注(2)…戦争中、空襲(くうしゅう)などをさけるため、都会から地方に移り住むこと。
87−2
乙空釜開拓100周年記念式典
乙空釜分校開設30周年記念式典