あさかわ 浅川町勢要覧2000◎町制施行65周年記念 -006/038page
鳥になって、浅川を知ろう1光と闇の協奏曲
若者にとって両町の紋を染め抜いたはっぴを着て、互いに花火の技を競い合うことに威信をかけた時代があった。
近年は両町青年会が協力して美しい花火を打ち上げている。浅川の花火に想いを寄せて
花火といえば夏の風物詩と思われがちだが、浅川のそれは単なる納涼亜化火ではない。そのことは花火の打ち上げ当日、弘法山での慰霊 祭から始まるところからもうかがえる。花火大会は本町と荒町の青年会にとって古くから先祖の御霊を供養する花火として受け継がれ、 伝統と重みのある行事として行われてきた。
その両町青年会に加入する資格もかつては厳しく制限されていた時代があった。本町あるいは荒町に三代以上居住する家系の長男し か入会できないとされた狭き門。しかも、その家独自の花火の作り方を詳しく記した花火秘伝帳を長男だけに伝える一子相伝が貫かれ ていたという。花火は一人三本から四本の割り当てがあり、すべて自費で作られていた。
こうして家同士が瞬間に消えていく花火の色や立目、豪巷Tさといった技を競ったのである。 手作りの花火ではあったが、そのレベルは相当に高いものだった。昭和二年(一九三六)に行われた第一〇回全国煙火競技大会で、荒 町の伊藤友次郎さんが入質を果たしたのだ。素人の入質は大会始まって以来のこと。その快挙は、驚きと称賛をもってたたえられた。 時代とともに青年会の入会資格やしきたりもゆるやかになり、手作り花火も既製品に代わったが、昔ながらの「大からくり」と呼ば れる手作り仕掛け花火や行事の細部には、かっての名残があり、いまだに守られている。
それは、青年会をはじめとするまちの人々の「浅川の花火を絶やしたくない」「伝統を守りたい」という情熱と努力によって継続され てきた。浅川の花火には受け継がれてきた精神そのものが凝縮されているといえるだろう。