あさかわ 浅川町勢要覧2000◎町制施行65周年記念 -008/038page
そして、いのちの海へ
世界で初めてラットに肝臓癌を生成した吉田富三が浅川町本町の造り酒屋に生まれたのは明治三六年(一九〇三)。浅川小学校時代 から成績が優秀なことで知られ、中学から東京に進学。東京帝国大学医学部を卒業後は、佐々木研究所で癌の研究に携わるようになる。 ここで富三が手がけたのが、毎日ラットに少量の化学物質を投与し、臓器を調べる実に根気のいる仕事だった。その結果、昭和七年
(一九三三)に肝臓癌の生成に成功。昭和一八年には癌細胞の究極の姿ともいわれる液状の癌を発見した。後に『吉田肉腫』と呼ばれ るようになるこの癌細胞の発見が、世界の癌研究を急速に進展させることになったのだ。
生涯を通して富三が癌を生成したラットは五〇〇〇匹、描きとった癌細胞の写生図は四〇〇〇枚に及ぶ。そこに一つとして同じ性質 がないことに気づいた富三は、癌にも個性があり、一つの生命体にほかならないという考えに行き着く。この真理を追い求める探究心 は、ここ浅川の自然環境によって育まれたものであった。晩年に彼はこう語っている。「城山の野原で遊び、月や星の光を見たり、自然 の不思議な力の申で自分を見つめたことが考える力を養っていたのだと思う」と。顕微鏡の思想家
吉田肉腫で癌研究の道を拓いた世界的病理学者・吉田富三
「疑うところに科学がある」と、絶えず顕微鏡をのぞき続けた科学者がいた。
小さな癌細胞が織りなす世界に無限の広がりを感じ、宇宙を語り社会を語った吉田富三は、「顕微鏡を考える道具に使った思想家」といわれ高く評価されている。 鋭い観察眼と豊かな思索によってあらゆる物事の真理を追究した彼の偉業は世界各国の癌研究施設で生き続け、その思想は生まれ育った浅川町にいまなお息づいている。鳥になって、浅川を知ろう2
城山に建つ富三の句碑2 俳句を「万人の心の芸術」として愛し、ふるさとの風景を詠んだ叙情的な句が多く残されている。