あさかわ 浅川町勢要覧2000◎町制施行65周年記念 -010/038page

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鳥になって、浅川を知ろう2

顕微鏡
顕微鏡

顕微鏡の思想家

人は人がつくるものではなく、自らがつくるべきもの。そう語った富三の人間教育への考えを反映するかのように、
吉田富三記念館を核とした自分づくりがまちで進んでいる。

顕微鏡をのぞく吉田富三
顕微鏡をのぞく吉田富三

大正2年、生家の造り酒屋で
大正2年、生家の造り酒屋で

昭和7年、恩師と一緒に
昭和7年、恩師と一緒に

昭和10年、長男直哉氏と
昭和10年、長男直哉氏と

昭和28年、昭和天皇と
昭和28年、昭和天皇と

昭和34年、文化勲章受賞
昭和34年、文化勲章受賞

昭和37年、ケネディ大統領と
昭和37年、ケネディ大統領と

医療制度への挑戦

 幅広い見識をもった吉田富三の活躍は、癌の研究だけにとどまらなかった。
 その一つが医療制度の改革である。富三は医師のあり方について問題を提議し、その理想とする姿を次のように説いた。医師は社会 の優越者ではない、医療には自己犠牲が伴う、患者の治癒力を利用する静観待機療法をとること、と。その意識のもと富三は大学教授や 組織委員の職について癌の研究制度の充実に力を尽くす一方、後進の指導に意欲的に取り組んだ。富三の医療哲学を学んだ若く優れた 医師たちが数多く育ったのはいうまでもない。
 また、昭和三六年に文部省の第六期国語審議会委員に任命されると、戦後の国語政策への提言を積極的に繰り広げた。当時、一部に は漢字、ひらがな、カタカナの混じる日本語が複雑であるという考えから漢字を廃止しようという主張があった。これに対し富三は、 難解な病名も漢字で判断できる効用を説き、日本語が微妙なニュアンスを表現できる言葉であることを説明。「漢字かなまじり文」を主 張し、現在の国語への道筋をひいたのである。浅川町では、これらの優れた功績をたたえ、昭和四〇年(一九六五)富三に名誉町民の称 号を贈呈した。その八年後、富三は病気のため七〇歳で生涯を閉じるが、彼が眠る東京文京区の墓の隣には研究を支えてくれた感謝を込めて、愛らしい「シロネズミの稗」が建っている。愛情豊かな彼の精神を見習うため、こ こ浅川の吉田富三記念館の前にも、碑を模した同じ「シロネズミの稗」が建てられている。


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