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簑輪地区のおじさんの話 |
簑輪が原は、戦争当時は、飛行機をかくのうする場所にもなるくらい広い草原でした。また、原の草は、馬のえさや田のたいひに使われていました。蓑輪が原の開発の頃は、戦後で食糧増産(しょくりょうぞうさん)の時代でした。しかし、原を水田にするためには、多くの水が必要です。近くの棚倉(たなくら)や釜(かま)ノ子(こ)では地下水がわき出ていることから、地区の人たちは、水脈(すいみゃく)の調査をし、地下水の利用を考えました。ボーリングをし、地下水がわき出た時のことは忘れられません。水田作りの時は、今のようなりっぱな機械はなく、セミクローラーという機械を使い、みんなで力を合わせました。
今は、浅川町の1割程度も米を収穫できるようになりました。 |
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