あさかわまちが生んだ偉人-016/093page

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うに、この世から姿をけしたのです。富三は、人間としても、実に立派な人でした。温い心の持ち主で、人間性豊かな思いやりのある人でした。人は、常に人間らしく生きなければならないということを、いつも考え、世の中のためにつくすことを信念として、一生をおくりました。それは、富三が、東京大学の教授になった時の、学生との接し方をみてもよくわかります。常に温い心を持って接し、一人ひとりの学生を大事にしました。また、指導にあたっては、「教育というものは、一人ひとりの力をひき出すことだ"という考え方で、学生のもっている可能性をひき出すことに努めました。ですから、手をとり足をとりして、あまり細かく教えるということはしなかたそうです。つねに研究心を大切にし、自分の可能性を信じ研究を進めていく態度を大切にする指導をしました。富三に接した友人や、弟子も、富三の豊かな人間性にひかれ心から尊敬しました。とかく秀才と言われるような人は、理性的で人情にうすいように言われますが、富三は温かい人情の持ち主でもありました。
5 最後の言葉
富三は、常に自分の健康に自信を持ち、健康であることを誇りにしていました。しかし、昭和四十七年六十九歳の新春を迎えると、急に呼吸困難をくり返すようになりました。
でも、健康に自信のある富三は、自分にも周囲の人達にも一時的なものだと言い聞かせて、学術会議にもかならず出席するし、たのまれれば講演にも出かけました。そして、論文も書きました。
しかし、六月に入ると健康に異常をきたしていることがはっきりしてきました。周囲の人たちも、体をやすめるために、入院をすすめましたが、富三はがんとして聞き入れません。そして、「人間
晩年の博士
晩年の博士

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