あさかわまちが生んだ偉人-017/093page
うに、この世から姿をけしたのです。富三は、人間としても、実に立派な人でした。温い心の持ち主で、人間性豊かな思いやりのある人でした。人は、常に人間らしく生きなければならないということを、いつも考え、世の中のためにつくすことを信念として、一生をおくりました。それは、富三が、東京大学の教授になった時の、学生との接し方をみてもよくわかります。常に温い心を持って接し、一人ひとりの学生を大事にしました。また、指導にあたっては、「教育というものは、一人ひとりの力をひき出すことだ"という考え方で、学生のもっている可能性をひき出すことに努めました。ですから、手をとり足をとりして、あまり細かく教えるということはしなかたそうです。つねに研究心を大切にし、自分の可能性を信じ研究を進めていく態度を大切にする指導をしました。富三に接した友人や、弟子も、富三の豊かな人間性にひかれ心から尊敬しました。とかく秀才と言われるような人は、理性的で人情にうすいように言われますが、富三は温かい人情の持ち主でもありました。
はいつか死ぬ。世の中にこれほどはっきり決まったことはない。それにもかかわらず、ふだんこのことを自覚して、毎日を生きている人間がどれだけいるだろう。」と言って、入院の前日まで仕事を続けました。
十一月一日、富三は、これ以上はむりであるという仲間のつよいすすめによって入院することになりました。そして、翌年の三月、「自分の病気も、来るところまで来たようだ。」と、もらすほど苦痛がはげしくなってきました。そして、昭和四十八年四月二十七日午前三時二十分、「止まってはならない、動くんだ。」の言葉を最期に、亡くなりました。
七十歳と二か月、二十三日の生涯でした。死因は、「肺ガン」でした。それは、「静かな眠りについた。」という言葉のような死でした。偉大な医学者であった富三も、病気には勝てませんでした。日本はおろか世界中の人におしまれながら、数々の功績を残して、太陽の没するよ
1962年(昭和37年末)59歳
愛孫由喜子さんをおぶって