あさかわまちが生んだ偉人-054/093page
2 砥石の粉から
器用で特別な技術をもった稔は、青年時代スマトラやオランダ・ドイツで新しい機械の作り方を知りつくしてきましたが、ひとのまねをすることが大きらいでした。
小さい時から何を見ても、すぐふしぎに思い、なんでも自分でためしてみなければ気がすまないのでした。また、これよりももっとすぐれたものは出来ないものだろうかと、常に新しいものを求める人でもありました。
昭和九年、稔は、東京板橋のかたすみに、航空機燃料系統などの部品を作る内田製作所を設立しました。従業員はだれもいなく、社員は稔一名だけでした。
貧しさのため、借家で、仕事場はたった畳一じょうの広さしかありませんでした。また大した道具もなく、あるものといえば、工作物をけずるせんばんと仕上げに使う研まばんぐらいでしたが、それでも稔は、
(ああ、自分の工場がやっと持てた。さあ、やるぞ。この腕で他の人が出来ないものを作ってみるぞ。これだけの道具しかないが、注文されたらなんでも
稔翁の青年時代