あさかわまちが生んだ偉人-077/093page

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一年)、立派な成績で学校を卒業しました。
卒業した稔は、久原鉱業の芝内製作所(現在の日立製作所)に勤めることになりました。ここでは主に鉱山機械を作りましたが、モーターも作りました。このうち、稔たちが手がけた六百キロモーターは今でも日立記念館に陳列してあります。
この久原鉱業も一年ちょっとでやめ、二、三の鉄工所を歩きました。そして明治四十五年(一九一二年)末、朝日奈鉄工所に移りました。
大正三年(一九一四年)、日本政府はスマトラ(インドネシアにある島)に技術者を送ることになったのです。石油を堀る機械の技術を修得させるためにです。稔は、大学教授の推薦で五人の中の一人としてスマトラに行くことになりました。
軍隊鉄道学校時代
軍隊鉄道学校時代

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