あさかわまちが生んだ偉人-079/093page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

外国で身に付けた技術が日本の工場に合わなかったということも重なって、一時浅川へ帰ってきました。しかし、浅川には工場がありません。農業で家族を養っていくこともできません。それで樺太(現在のソ連領サハリン)に渡って紙を作る工場を建設する仕事につきました。これも長続きしないで、また、日本にもどってきました。そして、前に勤めていた朝日奈鉄工所で働くようになったのです。
昭和九年(一九三四年)、稔は「学校を卒業してから二十五年。いろいろな会社や外国で身に付けた技術を生かし、人のまねをしない自分だけのものを作るんだ。」といって、今まで勤めていた鉄工所をやめ、「内田製作所」という会社をつくりました。その時、稔は四十二歳になっていました。
内田製作所の従業員は、稔一人でした。稔は必死になって飛行機の部品を作りました。誰のまねもしないで、自分で工夫して作りました。一生懸命作りました。今まで、たくさんの技術を身に付けてきたことが、この時役にたったのです。性能の良い部品ができ上がりました。性能が良いので、部品は飛ぶように売れました。作るのが間に合わなくなってきました。そこで、会社を建て直しました。従業員も七人になりました。

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は浅川町教育委員会に帰属します。
浅川町教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。