あさかわまちが生んだ偉人-080/093page

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会社は、どんどん忙しくなってきました。内田製作所の部品は、ますます評判が良くなり、「内田製作所の部品でないとだめだ。」とまで言われるようになったのです。その頃は浅川からもたくさんの人たちが、内田製作所に働きに行っていたのです。名古屋、埼玉にも工場を建てました。会社はますます大きくなっていきました。そして、稔は社長になったのです。昭和十六年(一九四一年)、日本は中国に続きアメリカとも戦争になりました。飛行機の部品はますます足りなくなってきました。内田製作所の仕事は、ますます忙しくなってきました。従業員も休まず、昼も夜も働きました。内田製作所の部品は信頼がますます大きくなり、「内田製作所なくしては、飛行機は飛ばない。」と言われるようになりました。稔は、飛行機の部品作りに貢献したということで、天皇陛下から勲章をもらいました。
しかし、日本は戦争に負けてしまいました。飛行機の部品だけを作っていた内田製作所は工場を閉鎖しなければなりませんでした。二千人もいた従業員には全員やめてもらいました。こうして、稔が作った会社はつぶれてしまったのです。
戦争に負けた日本の生活は大変苦しいものでした。食べる物も、仕事もあり

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