(6)江戸時代の三春(江戸時代)
三春城を築いた田村氏は、三代80余年で終わり、その後、伊達政宗の勢力けん圏に入りますが、やがて田村全域が会津領となり、三春城は、本城若松の支城のひとつとして城代がおかれるようになりました。
城代(主君に代って城を守り、命令を伝える者)や城主も目まぐるしく変わりました。
やがて江戸時代になり、正保2年(1645年)秋田地方に勢力のあった、秋田実季の子、俊季が五万五千石で三春城の城主となり、以後11代約220余年間にわたって、奥州三春藩として徳川幕府外様大名として幕末まで続きました。1)人々のくらし
ア 武士のくらし
三春藩の武士は、三春城下に住んでいました。
武士の家族と奉公人を含めて、およそ3500人に近いとされ、せまい山あいの城下はほとんどが武士の住む屋敷になっていました。
そのころの三春城下の人ロは、およそ5500人とされていますので、武士の多かったことがわかります。
藩主は、家来をつれて、1年おきに江戸と三春を往復しなければなりませんでした。
参勤交代といいますが、三春藩では、150人を上まわる人たちがこの行列に参加したとされ、たくさんの費用がかかり藩の財政も大変でした。