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藩の収入は、治めている土地から入る年貢米が中心でしたが、たびたび大雨や冷害にみまわれ、夏のひでりなどもあって作物のとれ高が落ち込み、財政が苦しくなりました。
江戸時代の中ごろにも大きなききんがありましたが、10代藩主、秋田肥季の時代にあった「天保の大ききん」(1833年)は特にひどく、三春藩の財政を困難にし、藩の政治をゆるがすものとなりました。
武士は藩主から手当てをもらって生活していましたが、身分の低い武士のくらしはとても苦しかったとされています。
イ 農民のくらし
農民は年貢として、田や畑などに対する税と、特産物などに対するいろいろな税を納めさせられました。
一番多かったのは田や畑などに対する税ですが、これを本年貢といって半分は米、半分はお金ではらうしくみになっていました。
このほかに夫役といって、いろいろな人足に出させられました。
江戸時代の中ごろからたびたびききんに見まわれ、農民のくらしはますます苦しくなり、餓死した人もたくさんでました。
飢えに苦しんだ人々の騒動もあったとされています。
江戸時代の主な作物は、米のほかに、あわやひえ、大豆あずきなどの雑穀でした。
三代藩主、秋田輝季は、幕府への献馬や藩主乗用馬など良い馬の産出に力を入れました。
農家の収入を上げるとともに藩の収入を上げるため、藩の費用で良い馬を買い入れて品種の改良をはかりました。
馬をかう農家がふえ、だいたいの農家では2〜3頭、7〜8頭もかう農家があり、ひとつ屋根の下の馬屋で大切に育てました。
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