農業副読本編さん事業 社会化資料 滝根町の農業 - 004/024page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

1.滝根町のあらまし

(1) 町のうつりかわり

 わたしたちの住む滝根町に人が住みはじめたのは1万年も以前のことで、町内の一部でもこの時代の遺物(いぶつ)が赤土(ローム層)の中から発見されています。しかし本格的に人が住んだのは縄文(じょうもん)時代(約9000〜2000年前)からで、当時の人々が恵まれた自然からの※採集狩猟(さいしゅうしゅりょう)生活をしていたことが、町内で発見された土器や石器からわかります。

 日本で本格的に水田での米作りが始まった彌生(やよい)時代(約2000年〜1700年前)や古墳(こふん)時代(1700年〜1400年前)にも、人々が農耕(こう)生活をしていました。次の奈良(なら)・平安(へいあん)時代になると、本格(かく)的に開墾(かいこん)などを行い、多くの人が住み始めたらしく、日当りが良くて、水の便の良い場所はこの時期に開発されています。昔も今も人々が農業を営(いとな)む土地の選定(せんてい)はあまり変わらないようです。

 戦国(せんごく)時代の滝根町には神俣城や広瀬の大越城などの城あとがあり、たび重(かさ)なる戦(いくさ)から人々はもちろん、土地や作物を守りました。また、このころから、菅谷や神俣、広瀬などの村ができました。この頃に、経済(けいざい)の単位として、米が日常の取り引きに使われるほど重要視(し)されるようになりました。江戸時代は三春藩領地(はんりょうち)で、人々は阿武隈山地特有の小さな谷間の水はけの良くない水田を耕(たがや)し、馬をかい、年貢(ぐ)という重荷(に)や、たびたびおそう災害(さいがい)とたたかいながら農業を行いました。

昔の家のあと(大平)
昔の家のあと(大平)

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は滝根町に帰属します。
滝根町の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。