郷土学習資料集 わたしたちの町 おおごえ - 059/065page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

 利吉はこの地方では、葉たばこのほかには売れるような作物がなく、農家の人たちはいつもひどい生活をしていたので、葉たばこを中心にした農業をさかんにし、農家の生活をよりよくしようと考え、ねっしんにしどうしてまわりました。こうして、田村地方では、しつのよい葉たばこが作られるよう,になり、葉たばこの生さん地として全国に知られるようになりました。

 昭和27年5月3日、利吉は、長年の努力がみとめられ国から農みんとしては、さいこうのめいよである「緑綬ほう章」を国から、さずけられました。

 昭和33年に、利吉は85才でこの世をさりました。利吉をしたう人たちの手によって、町の公民館の近くに銅像が立てられ、大越町の発てんを今でも見守っています。


   平川八郎右衛門
     三春ごまの改良につくした人

 今では、おもちゃの三春こまだけが知られていますが、生きた馬も三春こまといわれ、それ以上に日本中の人たちから、良い馬、りっぱな馬ともてはやされていたのです。

 この三春こまを育て上げるもとをつくり、三春地方の農家の人たちのくらしを良くした,恩人がわが町早稲川の早川八郎右衛門だったのです。それは、今からおよそ三百年前のことでした。

 八郎右衛門が生まれる前から大越は馬の産地でした。それは、牧野・栗出などが馬に関係ある土地の名前であることでも分かります。良い馬も生産されていました。しかし、岩手県の南部こまとくらべれば、体が小さくまだ見おとりしていたのです。

 八郎右衛門は、この地方のくらしを良くするには、良い馬を育てて売ることが一番いいと考えていました。しかし、八郎右衛門一人の力ではどうにもなりません。そこで、藩にお願いしてみようと思いましたが、そのころは、家来でないものが、殿様や藩の役人に意見をもうし上げたりすることは、きびしくきんしされていましたし、また、たいへんお金のかかる仕事ですから、もし、失敗でもしたらうち首になってしまいます。

 八郎右衛門は、考えに考えたすえ、うち首をかくごで、おそるおそる三春藩の馬の役所に「良い馬を生産するには、良い父馬がなくてはならない。それにはどうしても南部こまを買って来て父馬にすることだ。」ともうし出ました。

 八郎右衛門の考えは、役所の考えを動かしすぐに取り上げられました。藩では、よういでない中五百両もの金を用意して良い馬を買わせに八郎右衛門らを南部地方にやったのです。八郎右衛門らは、何日もかかって一頭、一頭よく調べ、これはと思う父馬を数頭買って帰りました。

 この馬を父親にした良い子馬がどんどん生まれました。こうして、体が大きく、ほね組みのがっちりしたりっぱな馬がたくさん生まれるようになったのです。これが三春こまなのです。

 農家の人たちが喜んだのはいうまでもありません。藩でも八郎右衛門に感謝しました。

 良い馬がたくさん生まれるようになって、わが町にも馬市が立つようになりました。馬を買う人たちが遠くからやって来てにぎわいを見せました。大越で生まれた馬は、良い馬、三春こまとして日本中に高いねだんで買われて行ったのです。


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は大越町教育委員会に帰属します。
大越町教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。