西郷村社会科副読本 DATA BOOK-046/147page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

[4]―1 西郷村の百年(ダイジェスト)
          (「立村百年」)
 慶応4月4月、新生日本の胎動が西郷の村々に「戊辰戦争」という形で伝わってきた。村々を蹂躙する戦いの中で村人たちは泣き叫びながら里道や畔道を逃げ惑い、里山に身を潜めた。3ケ月の長い戦いの後には焼けただれた家々の前に我を失った村人の姿がいたる所に見られた。山根(西郷)13ケ村401戸の内276戸が焼失した。亡村の危機、故郷最後の日を村人たちは目の当たりにした。
 こうして、西郷村の明治は食うに糧なく、住むに家なき最悪の状態で始まった。明治初年めまぐるしく発せられ廃される法令、制度の中で大海に漂う小舟のように、村人たちは新しい時代の恩沢に浴することなく貧苦の淵を彷徨していた。福島県令安場保和は「直管轄で比べるところがない位貧しい。このまま放っておいては地方長官としての責任を免れない」と述べており、この村々の復興に次々に有為(ゆうい)の人物を充てるが効果があがらず、最後の頼みの綱として白河一番町大坂屋八田部才助を戸長として復興に当たらせた。才助は安場県令と善後策を話し合い、産馬による殖産を行うため国から元金3,000円を借用し馬産につとめ、益金をもって罹災家屋の復興を成し遂げた。明治9年6月13日、明治天皇の東北御巡幸の際、才助が丹誠込めた1,501頭の西郷産馬は城山において天覧に供せられた。
 明治10年3月県の指導により村々の統廃合が行われ、西郷村々は13ケ村が米・長坂・柏野・熊倉・鶴生・真船・羽太・小田倉の八村に合併された。これがすなわち現在の八大字、立村時の9行政区(羽太は上・下の2つに数えられる)の元となるのである。12年には米・長坂・柏野・熊倉の4ケ村が組合村として米村に戸長役場を置いた。鶴生・真船の2ケ村は鶴生に戸長役場を置いたが、5月には熊倉が加わった。羽太と小田倉はそれぞれに戸長役場を置き村政を執行した。15年には小田倉村を除く7ケ村が組合を組織し米村組戸長役場を米村に置いたが、17年には米村外6ケ村戸長役場と改称した。一方小田倉村は16年白坂村外4ケ村戸長役場に加入した。16年から17年にかけては、戸長役場の管轄区域が拡大され村落が各地で連合した。
 明治21年町村制の施行に伴い、政府は全国の町村をほぼ6分の1にする町村合併を強制的に行う。新しい村は独立可能な行財政力を持ち、徴税・戸籍・徴兵・教育・衛生・土木などの国家行政事務が委任されると共に、その経費も負担させられた。県が立案した当初の計画では、西郷村は8大字と隣の白坂村の9ケ村が合併する予定であったが距離や民情の差等により白坂村は単独で独立し、現在の西郷村が翌22年4月1日誕生する。
 西郷村の初代村長に就任するのは元棚倉藩士横川時次である。以来大正6年までの28年に亘り、横川はその一生をかけて行財政の脆弱な寒村西郷村を豊かな村とするための努力をする。累年の凶災害を凌ぎながら未墾原野の開発、軍馬補充部白河支部や福島種馬所の誘致等渾身の力を込めるが、苦難の明治が終り世情が安定する頃、横川はその生涯を終える。
 第2代村長鈴木力蔵の時世は太平洋戦争と明治にはさまれた比較的平隠な時代であるが、大正も年が進むにつれて農村は不況に悩まされるようになる。
 大正11年1月第3代村長真船源太郎は戦前の地方自治完成期の村長といえる。13年郡制の廃止に伴い役場事務は急激に膨張、数少ない職員はその処理のため忙殺された。やがて時代は昭和に移り年号の意味する平和の願いもよそに世界恐慌に始まり長い長い戦争へと進んでいく。昭和5年折口原には小作争議が発生した。この争議に身も心も疲れ果て真船村長は任期中途にして退任した。

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は西郷村教育委員会に帰属します。
西郷村教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。