西郷村社会科副読本 DATA BOOK-055/147page

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1.大字米
鋳物師早山氏
 鋳物師早山氏が京、奈良の古寺参詣の途中、奈良の大きなお寺に鍛治職人が大勢集まっているのに出会った。見ると、大鐘の鋳型に真赤に溶けた鋳鉄を注ぎ込んでいるが、うまくできない様子であった。
 「地面に土を盛り鋳型を作っても鐘はできない。大穴を掘り、その中に鋳型を作ればよい。」職人たちは半信半疑ながら、そのとおりすると、割れることなく鐘は完成した。
 その話が天皇に聞こえ、早山氏はおほめの言葉を賜り、褒美に望みの品を与えようと仰せられた。早山氏は望むものなく、大納言の位が欲しい旨を言上した。天皇は位を許し、衣冠を与えたという。
 やがて、早山氏は国への帰途に着いた。途中、街道の修理をしている百姓の一群に逢った。聞くと、身分の高い大納言が通る道だという。大納言とは早山氏自身のことであった。
 故郷に帰った早山氏は、領主より身分が高いことになった。このことがいつか領主の忌避するところとなり、やむなく位冠の返上となったと伝えられている。
天明の飢饉供養塔
 天明の凶作は、天明3年(1783)より15年間続く。特に東北地方の窮状はひどく、天明2年の冬は、「領土温暖にて菜種花咲き、筍を生じ、陽気春の如く、時ならぬ雷雨あり…」という気候の異変が起きて、領民を不安にかり立てた。3年は例年に比べ草生いも良く、豊作を期待されていたが、田植時ころより曇りがちで冷雨が続き、5月より8月まで綿入れを着なければ過せない毎日であった。稲は植えたものの、低温と冷雨によって出穂期になっても穂は見られず、その結果大凶作となった。
 米蓮華寺の宝塔は、この7月に建てられている。農民の切実な思いが込められているのであろうか。なお、石工は信州高遠勝間村の甚七等である。
2.大字長坂
永倉(ながくら)神社(神明宮)
 長坂村の永倉神社は斉衡2年(855)2月3日、白河郡延喜式内七座(『文徳実録』)に列した由緒ある神社で通称神明宮(しんめいぐう)と呼ばれていた。
 式内社のうちには廃絶したもの、時代によって遷座(せんざ)(場所が移ること)したものもあって、所在不明が大半であったが、近世中期以後、古社名を名のる神社が多くなる。
 永倉神社が神明宮と呼称されるようになった時代は明らかではないが、『白河風土記』は次のように伝えている。
顧(おもう)二永倉ノ神ハ其土ノ神ナルヲ後世誤リ伝ヘテ神明宮ト崇(あが)メ祭リ来(きた)レルニヤ、又其(またその)徳ノ神明ナルニ依(よっ)テ土人古来(どじんこらい)ヨリ神明宮ト唱(とな)ヘ来リシモ亦(また)知ルベカラズ
白河七薬師のひとつ
七仏薬師(しちぶつやくし)
 寛喜2年(1230)白河城主結城朝廣公は白河城鎮護のため、三城目村(現矢吹村)より七仏薬師を向寺甘露寺(現白河市)のかたわら高岡山上に勧請した。
 近世初期、丹羽長重は小峰寺の修復に際し、これを山麓に移し鬼門鎮護(東北の守り)とした。その後、故あって金勝寺の経堂となり、戊辰の戦禍も免れたが、明治14年(1881)長坂村で譲り受けこの地に移築されている。
 この七仏薬師は白河七薬師の一つで、天井は格子天井、堂の正面の大

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