西郷村社会科副読本 DATA BOOK-056/147page

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額は阿部豊後守の献上で、中の額は松平定信の直筆と伝えられる。
※白河七仏薬師※
 万持寺、小峰寺、米山、久田野、鶴生、関山、長坂
3.大字羽太
笹原(ささはら)の姥(おば)と笹原神社
 弘仁のころ(810〜823)、何処からか笹原の姥なる者が羽太村に現れ、一面の荒野を開き道を作り、そこを永住の地とした。その後人々集い田畑を開き、一村をなしたという。この地は会津へ抜ける間道の要地となり行き交う人も多くなった。道中手綱坂に物見嶽という険しい場所がある。ここに横川の爺という山賊が住みつき、旅人は大変難儀した。これを知った姥は、ある日爺に人の道を説き聞かせた。爺はその徳に感じ前非を悔い、以来正業につくという。
 後世、村人は笹原の姥の功績をしのび、その霊をまつり、笹原神社を建立した。境内には笹原の池と称される神池があり、笹原川(真名子川)の氾らんにも埋まることなく、清らかに湧水をたたえるという。
 慶安検地の竿入(さおいれ)の際の詠人知らずの古歌が残る。
 君が世の繁る例(ためし)をふみわけて幾千代守る笹原の宮
むじな屋敷
 その昔、羽太村のとある屋敷に、「おまん」という美しい娘があった。夜な夜な庭先におまんを呼ぶ声が続くので、誰だろうと、不思議に思ったおまんは、ある夜屋敷の周りに灰をまいておいた。すると、翌朝庭一面にむじなの足跡がついていた。
 それからというもの、この屋敷を「むじな屋敷」と呼ぶようになったという。
庭渡神社の鶏鳴
 小館山の館主安良田勘解由が、守り本尊の大日如来を庭渡山に安置した時、双玉が現れ中羽太の方へ飛んでいった。
 その時、中羽太の鶏がけたたましく鳴き始めた。村人は、これに不思議を感じ、飛来した玉を御神体として、庭渡神社にまつり、氏神としてあがめたという。
 その後も、村人に善行あるいは悪事があると、神殿に鶏の鳴き声が必ず聞こえたと伝えられている。
大日碑(だいにちひ)
 虫笠村の湯泉八幡宮の上り口の西方、街道より少し奥まった杉林の中に二基の板碑が立つ。
 その一つの文安2年(1445)の板碑は、福島県内の石造供養塔婆では最末期(一番新しい)もので、身部には月輪のなかに五点具足の梵字(古代インドの文語、サンスクリット語を書きしるす文字)アーンク、胎蔵界(たいぞうかい)大日如来の種子(しゅじ)と荘厳のための蓮台を刻んであるため通称「大日碑」と呼ばれる。
 技術的にも末期の傾向が如実であるが、かすかに浄国、左衛門亟、隣賢、平八の紀年銘が確認できる。
宿場真名子新田村の由来
 延宝2年(1674)、降りしきる雪の中を北へ急ぐ旅人の姿があった。要務を帯び会津に向う本多家の老臣石黒勘左衛門である。
 鉛のように重い足をひきずりながら羽鳥村に着いたのは羽太村を発って2日目の夜になっていた。名主君島孫左衛門の家に宿をかり、あかあかと燃えるいろりに暖をとり、やっと人心地のついた勘左衛門は言った。

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