泉崎の文化財-000-03/27page

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古代白河郡と泉崎村
戸田有二
はじめに
 現在の泉崎村は福島県中通り地方南部地域に位置し、西は白河市、北は大信村、東で矢吹町と中島村、南で東村とそれぞれ村域を接している。古代の泉崎村は陸奥国白河郡に属していたがこの間数年間だけ石背国白河郡に属していた時期もあった。
古代陸奥国と石背国
 大化改新以前(大化前代)の東北地方南部の地域は信夫国造・阿尺国造・白河国造・浮田国造・染羽国造・道尻岐閇国造・石城国造・道奥菊多国造・道閇岐国造など10前後の国造支配によって統治されており、これらの国造支配圏は大化改新による律令制国家の誕生に於ける国・郡・黒制度の導入にともなってそれぞれ郡としての行政区画に改められる。ちなみにこの地域は白河国造の支配圏にあったためそのまま白河郡の行政区画となった。
 古代陸奥国の成立は、大化改新後もまもなく西日本及び東日本では、それぞれ、国として行政区画されるわけであるが、これらの日本列島に於ける初期の段階に成立した国々と同時期のことであり、その時代はおおむね大化5年(649)頃から次の白雉4年(653)頃までの約4年間の時期と考えられる。つまり大和朝廷国家が崩壊し、これに変って新しい律令制国家が生まれこの中で成立し機能したものである。この律令制国家とは、天皇を中心とした政治体制であり、中国の政治形態、文化形態を多く取り入れた、いわば日本に於ける最初の法治国家である。そしてこの陸奥国の成立から約70年程後の養老2年5月(718)陸奥国南部太平洋側の石城・標葉・行方・宇多・日里の5郡と常陸国北部の多珂郡より210戸を割いて菊多郡とし、合計六郡から『石城(いわき)国』を、同じく陸奥国南部内陸部より白河・石背・会津・安積・信夫の五部を分離させ『若背(いわせ)国』がそれぞれ設置される。いわゆる石背国・石城国の設置がこれである。この地域は石背国の行政区画になるが、しかし石背国については10年後の神亀5年4月の記事に『白河軍団を新設し、丹取軍団を改めて玉作軍団とすることを陸奥国が請い、これを許される』という文面が見られる。つまりこの『陸奥国云々白河軍団』という記事からうかがえることは陸奥国に新に白河軍団を設置し、すでに存在する丹取軍団の名称を玉作軍団と改名したという内容である。軍団は令制によって全国に設置された古代の軍隊で、大団(1000人以上)、中団(600人以上)、小団(500人以下)からなり、これらの軍団の兵士はそれぞれの国内に於ける三郡またはそれに近い数の郡を一単位として組織されるものである。しかし古代東北地方の場合、社会的背景・政治的背景などの諸事情によってことなっており、陸奥国内には白河団・安積団・磐城団・行方団・名取団・玉作団・小田団の七軍団が設置されている。このうち石背国地域に設置された軍団が白河軍団と安積軍団である。これらの軍団については考古学的調査はあまり実施された例が少ないので詳細は明瞭ではないが、軍団の名称は設置された場所の『郡名』を取っているのが一般的である。話は神亀5年の白河軍団の記事にもどるが、石背国は養老2年(718)に陸奥国南部地域の『石背五郡』を割いて成立したわけであるが、その約10年後の神亀5年(728)には『陸奥田云々白河軍団』の記事から、白河軍団(白河郡)は養老2年以前のもとの陸奥国の行政

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